バビラの追憶

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ビデオに映っている2匹の犬(さらに別の小さな仔犬も少し映っていますが)のうち、首輪をしているのはワガドゥグーの私のホストファミリーの番犬、トゥーパスです。 もう一匹は近所で生まれた犬だと思われます。 この小さな犬は時々私たちの家のテラスに来ていましたが、ホストファミリーはこの新しい犬にはどこかに飼い主がいると信じていたので、餌を与えませんでした。 実際、そうするための経済的余裕もなかったのです。 私たちはこの犬を単に「バビラ」(モレ語で仔犬)と呼びました。 仮に飼い主がいたとしても、ワガドゥグーの犬のほとんどは放し飼いで自由に歩き回っているので、さまざまな場所で食べ物を漁っています。 バビラはトゥーパスをとても慕い、ますます頻繁にトゥーパスを訪ねてくるようになりました。そしていつしか私たちの家に居ついたのです(夜は必ず帰ってきて寝るようになったという意味です)。 ホストファミリーは必ずしもバビラを歓迎していませんでした。 貧乏で犬を2匹飼えないからというだけではなく、バビラにはダニがすさまじく多かったからです。 バビラと一緒にいると、トゥーパスのダニも増えるばかりで、そのダニは人間にも移る可能性があるのです。 やがて、2匹の犬は夜には寄り添って眠るようになり、トゥーパスのダニも増えて、家のテラスに犬の体から落ちたダニが目につくくらいになりました。

トゥーパスは私と私の息子にとりわけなついていて、どこへでも付いてきます。 やがて、バビラがどこへでもトゥーパスを追うようになったので、 近所の人たちは、2匹の犬と2人の日本人が一緒に行き来しているのをしょっちゅう見かけるようになりました。 私たちはバビラをあまり気にかけていませんでしたが、なんとなく受け入れていたわけです。 トゥーパスはすでに2歳のオス犬だったので、喧嘩が強く、なわばりを広く張っていました。仔犬のバビラが他の喧嘩好きの雄犬にちょっかいを出していじめられそうになると庇ってやりましたが、バビラが自分の餌に触れると容赦なく吠えて追い払い、分けてやるということはしませんでした。トゥーパスに吠えられるとバビラはおびえた様子で身をすくめ、引き下がりました。その姿が哀れで、 私は時々バビラに餌をやりたいと思ったのですが、息子はそれは気まぐれで無責任な行動だといい、バビラを飼うことができない以上、むしろ早いうちに追い出した方が良いと主張しました。 息子の言い分は正しいのですが、彼も敢えてバビラを追い出そうとはしませんでした。 バビラは決してやせ細ってはいなかったので、どこかで食べ物を手に入れているに違いないと考え、成り行きに任せておきました。

しばらくして、息子と私は約1か月間南アフリカに行くことになりました。その旅行から帰ってみると、状況が一変していたのです。 2匹は喜んで迎えてくれましたが、彼らの体からダニはほとんど消え、特にバビラは毛並みがつやつやの美しい犬に成長していました。といっても、まだ5か月強くらいのはずでしたから、片足を挙げておしっこをすることもうまくできなくて、マーキングも始めておらず、相変わらずトゥーパスにくっついていました。

ホストファミリーの長であるマブドゥ(私のオペラのコラボレーターでもあります)から、バビラが鶏を狩り始めたという衝撃的な事実を聞かされました。 これは悪い兆でした。 貧しい人々にとって鶏は、時には現金の代わりとして機能する貴重な資産なのです。 にもかかわらず、鶏の多くも放し飼いで、どこからともなくやって来る鶏が、我が家の庭で虫やこぼれた穀物をついばみながら日中のほとんどの時間を過ごし、日の沈む前にどこかへ帰っていくのです。 ですから、お腹を空かせた犬が鶏を襲ったとしても不思議ではない状況なのです。 しかし、それはタブーであり、この習性を身につけた犬は人間に捕獲され、殺されて食べられてしまいます。 過去に私たちは同じ理由で殺された犬を食べさせてもらったことがありました。
マブドゥはバビラの元の飼い主(またはバビラを産んだメス犬の飼い主)を探して近所を尋ね歩きましたが、そんな人は見つかりませんでした。 誰もが「(バビラは)あなたの犬でしょう?」と答えたそうです。 近所の人たちの目にそう映ったのは当然かもしれませんが、そうなるとバビラが鶏を殺したことの責任はマブドゥにあることになります。
何とかしてバビラをこの状況から救いたいと思いましたが、バビラはすでに鶏肉の味を覚えていたわけですから、どうすれば鶏狩りをやめさせられるのかわかりませんでした。 バビラを飼ってくれる人を探したいとマブドゥに伝えましたが、バビラはもう生後6か月くらいなので手遅れだと反対されました。 私は、バビラをしばらく庭に繋いでおくのがよいと思いつき、そうしておいて十分な餌をやれば、鶏を襲わなくなるように教育できるかもしれないと楽観的に想像しました...しかし私が提案するより早く、ある朝マブドゥがバビラを鎖で繋ごうと言い出しました。 彼はそれについて私の助けが必要だと言いました。 マブドゥも私と同じアイデアにたどり着いたのかと思いましたが、すぐにそうではないと知りました。 その頃までに、バビラは合計で約5羽の鶏を狩っていましたが、これ以上狩りを続ければ、近所の人たちも黙ってはいないでしょう。 マブドゥは、このままではトゥーパスも真似して同じことをし始めるかもしれない、そうなったらトゥーパスも殺さなければならなくなってしまう、と私に言いました。
つまり、マブドゥはバビラを犬殺しの熟練者に引き渡す決意をしていたのです。 ここで言っておきたいのは、マブドゥ自身を含め近所の男性たちはすべて、鶏やヤギ、羊、牛などの草食動物を殺したり、解体したりすることができますが、犬の場合は別の話だということです。 犬は鋭い歯で噛みつくので、別の方法で殺す必要があり、それに慣れている人だけが行うことができます。 
マブドゥが涙ながらにこの決意を固めたとは思われません。 犬の肉は彼の大好物ですし、必要が生じればトゥーパスを殺して食べることも厭わないと思います。ブルキナファソの人全員が犬肉を食べるわけではありませんが、犬肉好きは多く、確かにとてもおいしいのです。 しかし、ここ数年来テロリストがあちこちで村を襲撃し焼き払い、人々を殺害し続けており、テロリストたちも政府軍やボランティア兵たちとの戦闘で殺害されています。 犬や豚(放し飼いです!)が放置された人間の遺体を食い荒らしているのが度々目撃されているため、これらの動物の肉を避ける人もいます。 しかし、首都ワガドゥグーではまだこのようなことは起こっておらず、多くの人が身元がわかっている犬の肉ならば喜んで食べるのです。 犬が捕獲されて殺されると、その情報はネットワークを通じて伝わり、その肉を手に入れようとする人々が集まります。

マブドゥのためにもう少し説明しなければなりません。 マブドゥのようなブルキナファソの庶民は、常に肉食をしているわけではありません。 通常彼らは魚(これも毎日というわけにはいきませんが)、鯵か鯖を一切れ買います。それを2つの家族と私と私の息子=合計8人で分け合います。 言い換えれば、私たちは各々、魚を一口ずつ食べることができるというわけです。トゥーパスには骨だけをやります。
動物の肉は祭りや儀式のときの豪華なご馳走であり、しばしば重要な犠牲として屠られます。 何事にも精霊の力が強く働いているという彼らの認識と信念、その精霊の力を讃え、それにあやかるために生贄を捧げる習慣、そして精霊は血を好むため、犠牲の肉のほうは儀式に参加した人間たちに分け与えられます。

私はブルキナファソに4年以上住んでいますが、ほとんどすべての家畜が放し飼いで自由に歩き回っているにもかかわらず、車に轢かれた動物を見たことはありません。 犬たちはよく道路の真ん中で寝ていますが、バイクや車が来ても慌てることすらなく、それに腹を立てる人間もいないのです。 ブルキナファソは世界で最も貧しい国の一つといわれますが、強盗やスリはヨーロッパの大都市に比べるとはるかに少なく、家畜泥棒はいるもののそれほど多いわけではなく、盗まれないようにと家畜を縛り付けたり、囲い込んだりする人はほとんどいません。

バビラの話に戻りますと、あれはクリスマスを過ぎたある朝、マブドゥと私が朝食を摂ろうとカフェへ向かうときでした。バビラが付いてこようとしたので(なぜかトゥーパスはその時いませんでした)追い払おうとした拍子に(つまり、バビラが我が家の飼い犬であると近隣の人々から思われるのを、少しでも避けようとしたのです)、マブドゥがバビラを鎖に繋ごうと言い出し、私がバビラを撫でてやってくれれば、その間に自分が首輪を付けると言ったのです。私はバビラを教育するために縛るものと誤解し、あっさり引き受けました。バビラは何の抵抗も示さず首に縄を付けられてしまいました。痛いとかわいそうだから縄をきつく締めすぎないように頼みましたが、マブドゥは取り合わないので、私はバビラの首の下に自分の指をこっそり差し込んで、縄が食い込まないようにしました。縄の先を金属の鎖に繋ぎ、その鎖を畑の杭に結んで、私たちはカフェへ向かいました。カフェで朝食を摂っている最中の会話から、私はマブドゥが犬殺しにバビラを引き渡そうとしていることを知りました。どんな代案を出してもマブドゥの決意を変えることはできず、私が気乗りしていないのを察したマブドゥは、私が朝食を摂っている間に全てを済ませるからと、席を立って行ってしまいました。私は動揺しましたが、どうすることもできないと観念していました。でもいてもたってもいられず、朝食をそこそこに家に向かうと、バビラが畑の杭ではなく、テラスの支柱に繋がれているのを見ました。マブドゥが戻った時、バビラが暴れて畑の杭を倒し、杭を引きずったままどこかへ逃げようとしていたところを見つけ、テラスに繋ぎ直したそうです。マブドゥは犬殺しを呼びに行くと言って、バイクで出かけました。支柱に繋がれたバビラは、長く寝そべった姿勢のまま、諦め切ったような悲しく疲れた目で私を見やりました。せめてもの慰めにと朝食の残りの揚げ菓子を置いてやりましたが、目もくれませんでした。庭ではいつも通りマブドゥの奥さんたちが髪結いの仕事をしていて、大勢の女性たちが集まっていました。私はバビラを放してやりたい衝動をぐっと抑え、自分の部屋に逃げ込みました。この状況をすぐにでも息子に伝えたかったけれど、彼はまだ目覚めていませんでした。静かな恐怖のために腕が痺れたような感覚に襲われましたが、座り込んで作曲を始めました。バビラが数十分後に殺されるかもしれないという恐れ、自分の無力と無能、バビラが自分をどんな気持ちで見ていたのかという想像などで息苦しかったけれど、それらのすべてを記憶に焼き付けるために曲の形にしたいという奇妙な発想です。単なる逃げの手段だったのかもしれませんが。
自分は卑怯だという気もしながら、何かを祈るような気持ちで集中して作曲していました。ですが、間もなく息子が目覚めると私はすぐに立ち上がり、状況を手短に説明し、繋がれたバビラを見せようと外に出ました。

私が見つけたのは、鎖の先の空になった首輪だけでした。女の人たちは何事もなかったように髪結いを続けていました。私が気づきもしないうちに犬殺しに連れて行かれてしまったのかと呆然としました。なすすべもなく、息子の朝食に付き合おうと再びカフェへ向かった私は、小道の角でマブドゥと出くわしました。 「もう連れて行っちゃったの?」「いや、今(犬殺しが)来るよ」「でもバビラはいないよ」
驚いたのはマブドゥです。慌てて家へ戻った彼は、女の人たちがバビラを逃がしたと疑って激怒したそうですが、彼女らは「逃げようとしてもがき続ける間にバビラの首輪はどんどん緩んで、ついには首を抜くことに成功して逃げて行った」と話したそうです。
ほどなくしてトゥーパスと連れ立っているバビラを見かけました。マブドゥはバビラを捕まえたかったのですが、私と息子はそれに協力するフリをしながら、バビラを追い払って逃がそうとしました。繋がれていたときには責めるような目で私を見ていたバビラでしたが、そんなことは忘れたかのように私にすり寄ってこようとしました。バビラを抱きしめて謝り、逃亡できたことを祝福したかったけれど、彼が二度と私たちや私たちの家に近付かないようにするために、強気で追い払うことが肝心でした。息子は石を投げてバビラを追い払い、トゥーパスだけを連れて私たちは馴染みのカフェに行きました。しかし、バビラは遠巻きにしながら私たちについてきて、隙あらば近寄ってそばに座ろうとしていました。何度も石を投げられ、戸惑ったような表情で後退し、少し離れた樹の下に座ったバビラの姿を今も忘れられません。
マブドゥはあとからカフェへやって来て、バビラを見かけたら、捕まえて連絡してくれと私たちに頼みました。犬殺しもマブドゥのバイクの後ろに乗っていました。少し離れた樹の下にいるバビラに彼らは気付かなかったのです。何しろこのあたりの犬は皆とても似ていますからね。
その夜、家族皆がまだ庭でくつろいでいる時にバビラは現れました。私は素早く息子に目配せしてバビラを追い払うように頼み、マブドゥに話しかけに行って彼がバビラに気付かないようにしました。皆が寝静まってから私はまだ小道の影にいたバビラに近寄り、かがんで彼の顔を自分の両手ではさみ真剣に諭しました。「ここへは二度と戻ってきてはいけない。そうてないと生き続けられないのよ。どうか遠くへ逃げて、生きて行って」と。バビラは私に何の恨みも持っていないかのように、落ち着いて見上げておりました。彼の毛はつやつやとして美しく、体は暖かく、健康そのものでした。

翌日もバビラは夜が更けてから我が家の庭へ戻って来て、今は使っていない、古いトイレの中で眠っていたようです。そこには古着が沢山投げ入れてあるので、暖かく眠れるのです。私が夜中にトイレに起きた時にそこからバビラが挨拶しに出てきたのです。安心して眠れる場所がまだ見つからないのだろうと思い、今夜は追い出すまいと決めた私は、古着の上に横たわるバビラの右目の上の傷跡をしばらく撫でていました。この傷跡は彼が生後2ヶ月くらいで我が家のテラスを初めて訪れた頃からありました。バビラは撫でられながらもぐっすり眠っているかのように身動き一つしませんでした。
翌日の午後、トゥーパスを従えて裏通りのカフェへ向かった私と息子の目の前に、ふいにバビラが現れました。息子は何度も彼を追い払い、その後私たちはカフェに座って紅茶を飲みながら話をしていました。しばらくしてふと椅子の下を見ると、バビラが丸くなって眠っているではありませんか!
まだ幼い、バビラの人を疑うことを知らぬ振舞に愛おしさがこみ上げました。でも、息子は心を鬼にして、眠っているバビラを椅子の脚で突いて追いやりました。悲しげなバビラはしかたなく起き上がり、2メートルほど離れた別の客の椅子の下に座り直しました。帰りも、付いてこようとしたバビラを追い払って私たちは家にたどり着きましたが、きっと夜更けにはまた旧トイレに眠りに来るだろうと考えた私は、食事の時に鶏の骨を取っておいて、夜中にバビラにやろうと部屋の隅に隠しておきました。
その夜、寝床について息子とおしゃべりしていた私に、ドアの外からマブドゥが低い声で話しかけました。「あいつを捕まえたよ」と。私は耳を疑いました。マブドゥに捕まるなんて、どうしたことでしょう!マブドゥはバビラをかわいがったことはないし、バビラも決して懐いてなどいなかったのに。バビラはすでに犬殺しに引き渡されて、どこかへ連れて行かれたあとでした。息子は黙って外へ出て行き、長い時間庭のベンチに腰掛けていました。私は自己嫌悪と無力感と、それでも今ならまだ彼を救えるかもしれない、でもそれが「正しい」ことかどうかはわからない。ブルキナファソに骨を埋める覚悟すらない私が、どうやってバビラの一生に責任を持つのかという疑問がただただ頭の中を行ったり来たりしていました。結局何の決断もできない私は、ただただバビラが最後に苦しまないことを祈るという不甲斐ない、情けない有り様でその夜を過ごしました。
翌朝、料理されたバビラの肉を私の部屋へ持ってこようかとマブドゥに問われ、私はトゥーパスがいるから我が家には持ってこないでほしいと頼みました。重い足取りでカフェへ行き、息子と朝食を摂っていると、マブドゥがそこへやって来てあなた達の分の肉を取っておいたからここへ持ってきてあげようかと問いました。息子はバビラの肉を食べる気はないようでしたが「本来なら食べてやるのが筋だ」と言いました。私は迷っていました。でもついに決断して、肉を調理した家へ行って食べさせてもらうから、そこへ置いておいてくれるようにマブドゥに言いました。
それはマブドゥの従弟の家で、訪ねると従弟がひとりで待っていました。薄暗い室内で手渡された椀の中に骨付きの肉が煮られたものがたくさん入っていました。椀に向かい、思わず手を合わせて頭を下げた私は、生まれて初めて、食べるということの本質を悟った気がしました。「いただきます」と朝な夕なに食前に手を合わせて何十年も生きてきたけれども、それはすべて形式だった、何の実感も真実もそこにはなかったという気がしたのです。私は震える思いで肉を口に運びました。驚くべき美味しさに、再び衝撃を受けました。あんなに軽やかに動き回って、表情豊かだったバビラの肉と骨が、今私が口にしているものと同じだと考えると妙な気がしましたが、バビラの肉が、私の肉の一部となることを想像し、その不思議に全身が慄きました。
バビラを救おうとしなかった私は、彼を愛していたということはできません。しかし、私の心はバビラへの憧憬で満たされました。結局は短かかった生涯において、あんなに素直にトゥーパスを慕って、空腹のあまり本能に促されて鶏を狩り、その新鮮な肉で美しく成長し、捕まった時には全力で抵抗し、ついには掟に従って殺され、驚くべき美味な肉料理になって食べるものに喜びを与えたバビラ。バビラへの憧憬の念のすべてを込めて、私は曲の残りを完成させました。

バビラがどんなふうに最期の時を迎えたのか、その恐怖と苦しみが大きくなかったことだけを祈っていましたが、敢えて犬殺しに尋ねることはしませんでした。しかし、年が明けて間もない頃、バビラと同じくらいの月齢のオスの仔犬が、やはり鶏を狩り始めたという理由で殺されることになりました。今回はなぜか、我が家の敷地で解体が行われることになりました。今まさに殺された状態で犬が運ばれてきたのを見ると、バビラとそっくりの大きさと毛並みでした。犬の場合は皮を剝がずに、木切れを積み上げた上でまず全身を焼くのです。殺されたばかりの犬の亡骸は完全な脱力の状態でまるでぐにゃぐにゃという感じでした。トゥーパスに犬が焼かれるところを見せないように、息子と私は彼を連れてカフェへ行きました。ですから犬が炎に包まれるところは見ていません。
この犬の肉もバビラ同様、本当に美味しいものでした。

人間の集落に生まれ、生きていくために掟を破らざるを得なかった(もちろん彼らは掟の存在など知る由もありませんが)この美しい生き物たちの命を取って、料理し、味わい、糧とする私たち。生き物の命を取るという実感は、時として人を菜食主義者にすることもあります。
この経験の衝撃は私の心に沈み、それをどうしていけばよいのかいまだに分かりません。が、小走りに駆けながら何度も嬉しそうにトゥーパスに体をぶつけるバビラを見ながら息子と私でたどった小道の風景が不意に脳裏に浮かび、一抹の後悔が胸をよぎります。

 


勧められた食べ物は絶対に断らない

ブルキナファソに行くとき、私は自分に勧められた食べ物は絶対に断らないと心に誓いました。異なる文化圏に足を踏み入れたとき、自分の価値観を脇に置いて、相手の価値観、生態、文化を尊重したいと思いました。いわば私は侵入者であり、侵入者として、自分のさまざまな優位性を、相手に不快感を与えたり、劣等感を抱かせたりするために使用するようなことにならないように細心の注意を払おうと考えていました。優位性とは、まず経済的な優位性、他の人に何らかの仕事を与えられる立場、そし​​て白人であることが他の人に優位だと感じられるかもしれないという事実です。彼らにとって、アジア人も自分たちより白いので白人と見なされます。

批判的に物事を見ることは重要ですが、異なる文化環境に入ったときに最初から批判的に物事を見すぎると、異なる文化への理解を妨げる可能性があります。

彼らの食べ物をすべて受け入れることと、彼らの道徳をすべて受け入れることのどちらがより難しいかは一言では言えません。いずれにせよ、私のちっぽけな信念や美意識など、崩れて消えても構わないと思っていました。ある意味で、異文化に侵入するということは、その文化の中に身を置き、その文化に侵入されるということです。例えば、私たちが何かを食べるとき、それは必要なものを摂取し、不要なものを排泄するプロセスです。不要なものを排泄できなければ、私たちが食べる食べ物は私たちを侵害することになります。食べ物の場合、必要なものと不要なものを決めるのは身体ですが、文化の場合、必要なものと不要なものを決めるのは心です。

私は、ブルキナファソ出身の著名な建築家フランシス・ケレの招待を受けてブルキナファソを訪問したこと、彼がクリストフ・シュリンゲンジーフが設立した複合施設 - オペラ・ビレッジに将来オペラハウスを建設する計画があること、そして私がブルキナファソに行く目的は地元の伝統音楽家と協力して、そこで上演されるオペラを作ることだということを、さまざまな場所で公式に発表してきました。これはまったく事実でしたが、私は前進するにつれて常に軌道修正を余儀なくされました。なぜなら、フランシス・ケレとの個人的な会話や約束を、ゲーテ・インスティテュートのような機関に公的プロジェクトとして承認してもらったり、予算を提供してもらったり、現地の協力者を紹介してもらったりするプロセスを経なかったからです。ブルキナファソのような国ではそのような協力ができるのはほとんど欧米の機関に限られていましたし、そのような機関の企画として行おうとすると、いつの間にか他国への文化侵略の構図に陥り、結果として経済力の強い国家の優位性を促進してしまうことになりがちなのです。アフリカにおける西洋主導の多くのプロジェクト (私の目に留まらない小規模な民間プロジェクトは例外として存在していれば良いのですが...) は、そのようなアプローチを超えることはないようです。
2024年9月、35人のアフリカ人ダンサーが来日し東京でピナ・バウシュ・カンパニーの公演に出演しました。彼らが、おそらくフランシス・ケレが建設したと思われるセネガルの施設で、ダンスカンパニーのメンバーの指導のもと、ピナ・バウシュ、の代表作の 1 つであるストラヴィンスキーの「春の祭典」のリハーサルを行う様子をビデオで見ることができます。「このプロジェクトにはアフリカ13カ国から選抜された35人のダンサーが参加し、ピナ・バウシュのオリジナル振付・演出に新たな息吹を吹き込んだ」と宣伝されていました。チケットは平日の一般A席でも1万4千円。これは一例に過ぎませんが、このようなプロジェクトのスポンサーや後援の一覧を、現在の政治的な状況と照らし合わせて見ると、その意図や背景にはさまざまな憶測が可能です。いずれにせよ、私がアフリカでやりたかったこととは正反対のアプローチです。類似のプロジェクトは数多くあり、アフリカで歓迎されないわけではありません。一般のアフリカの人々は概して無関心だと思います。が、選ばれた出演者たちは先進国で公演することで得られる報酬、キャリア、名声に非常に興味を持つに違いありません。実際、私の小規模オペラ作品にも協力したいと名乗り出る出演者や演出家は多く、先進国での公演やプロジェクトへの参加経験の豊富さ、そしてそれによって得た報酬の額を延々と私に自慢するのです。彼らはそれをひけらかすことで私の信頼を得られると勘違いしており、私からも同様の報酬を受け取ることを期待します。つまり、彼らは先進国の文化的期待に応えることができ、先進国で何が受け入れられ、彼らに何が求められているかを知る経験をすでに積んでいるというわけです。彼らが自らの文化圏でどのように音楽を楽しんでいるのか、彼らの元々の生活で音楽はどのような役割を果たしていたのか、彼らの文化における音楽やダンスの位置付けは私たちの文化とどう違うのかということを私は知りたいのに。結果として、私はゲーテ・インスティトゥートやフランス文化会館、外国大使館に常連として雇われている音楽家やダンサー以外の人々と仕事をすることを選びました。
これは先に述べた、食事や道徳の問題とも無関係ではありません。私たちが通常自分自身に課する完璧さやスタンダードを再検討することは、ある意味、非常に困難ですが、非常に重要でもあります。私たち自身の信念や美学が私たちをがんじがらめにしたり、仕事で前進できなくしたりしていることもあるからです。

極端な言い方をすれば、私はまだ4、5歳の無垢な段階に自分をリセットし、新しい文化や新しい音楽を吸収したいと思っていたのです。しかし、それは無理な話でした。なぜなら、私は少女ではなく、地元の人々の目には明らかに、ある程度の経験と明確な目的を持っているはずの先進国出身の年配の女性だったからです。しかし、最初は、自分の最も得意な楽器であるキーボードを持っていくことさえためらい、代わりに、約6か月間練習していたに過ぎないトルコの伝統的なフルート - ネイだけを持っていきました。ネイと声だけを使って、機会があるたびに偶然出会ったアフリカのミュージシャンと演奏しました。もちろん、彼らは私が彼らの音楽についてほとんど何も知らず、バンドで演奏する基本的なルールさえ知らないことに気づいていましたが、文句を言うことなく私を受け入れ、私の無茶な演奏を楽しんでくれました。今振り返ると、当時出会った人々の柔軟な精神 - 無茶な演奏を楽しんでくれた彼らのオープンマインドと好奇心に畏敬の念を抱かざるを得ません。当時私が熱心に勉強していた現地語の一つ、モレ語では、「教える」と「学ぶ」という動詞が同じです。これはとても重要なことです。なぜなら、教師と生徒の関係は結局は一方的なものではなく、お互いのニーズに応える交換関係であると考えられるからです。また、「したい」と「しなければならない」という表現に区別がないことにも興味をそそられました。これを聞いてモレ語は高度に進化した言語ではないと考える人もいるかもしれませんが、決してそうではありません。日本語でも、「聞く」という動詞には、何かを聞くことと尋ねることの両方の意味がありますよね。

ある時、仲間のミュージシャンが私に「白人は私たちの先祖の宝物を盗んでいる。彼らは去るとき、『必ずまた来る』と言うが、ほとんど戻ってこない」とつぶやきました。私は彼の言葉にびっくりしましたが、よく聞いてみると、音楽のことを言っているのだと分かりました。彼は、白人たちが西アフリカの伝統的なリズムや旋法パターンを素早く習得し、それを家に持ち帰り、自分の作曲に流用するという習慣を「先祖の宝物を盗む」と表現していたのです。彼がそのような表現を使うのは、詩人気質だからというわけではありません。「先祖」を意識した言葉や行動は、ブルキナファソの日常生活のあらゆる側面に浸透しています。例えば、ビールを飲むとき、最初の一口は必ず地面にこぼして先祖に捧げます。「あなたはあの人たちと違う。何度も戻ってきて、同じ屋根の下で暮らし、同じ水を飲み、同じ食べ物を食べ、先祖を理解しているからだ」と彼は私に言いました。この最後の点が特に重要で、結局のところ、それこそ「素早く簡単に」理解できるものではないからです。
ブルキナファソの人々は一般的に貧困で、電気も水道もない生活を送っている人も多いため、彼らの感情や態度が単純素朴であると想像するとしたら、それは間違いです。彼らは日本人の平均以上に社交上の礼儀を重んじ、本音と建前を区別しています。ブルキナファソでの生活は、常に人との交流が必要で、いつ何時でも事前の約束なしに人が訪ねてきますし、家のつくりもプライバシーの概念とはかけ離れているため、むしろ本音と建前を区別することは不可欠なのです。確かにブルキナファソの人々は温かく友好的な人が多く、外国人観光客に「あなたはもう家族の一員ですから、いつでも歓迎します」と言うのも一般的です。これは空虚なレトリックだと言いたいのではありません。彼らの礼儀作法は非常に洗練されているため、心に多くのひだがあるということです。
私の次男が私たちのところにやって来て、9ヶ月半過ごし、帰る時が来たとき、ホストファミリーの長であるマブドゥが息子に別れの挨拶として左手を差し出し、私を驚かせました。西アフリカではトイレで体浄めるために使う左手を他人に差し出すことはタブーだからです。 「ああ、ケイコ、まだ知らなかったんだね。長期間会えないと思ったら、左手で握手して再会を祈るんだよ」と言われて、感慨深く感じました。息子は、修士課程を修了して就職するために日本に帰国することになっていたので、いつか退職する年齢に達するまで、もうこんなに遠くまで来ることはできないかもしれないと正直にマボドゥに伝えていました。マボドゥだって同じです。(たまたま、来年は大阪万博でオペラを披露するために日本に来るかもしれませんが、そんなことでもなければ、どうして彼が日本まで来るなどということが可能でしょうか?)二人が無言で、心を込めて握手をするのをじっと見守りました。

 6月1,2日のイベントに多数のご参加をありがとうございました。熱いトークセッションの内容を文字起こししましたので,どうぞお読みください! 

 トークセッション1日目

作曲家の藤家溪子さんと、彼女の音楽作品に関する対話形式のインタビューでした。主な話題は、藤家さんがブルキナファソで体験した出来事や文化、そこから生まれた音楽作品について、また動物を食べることの倫理的な側面についてでした。参加者は様々な世代から集まり、食べ物や自然、音楽に対する考え方を共有しました。結論は出ませんでしたが、お互いを理解し合うことの大切さが確認されました。 
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トークセッション2日目

このセッションでは、ブルキナファソに住む作曲家・藤家さんが、自身の経験や作品について語っています。藤家さんは、ブルキナファソの現状や文化、食習慣について詳しく説明しました。特に、犬を食べる習慣について触れ、自身の経験を振り返りながら、命の尊さや食べ物に対する考え方について語りました。また、万博でのオペラ公演の準備状況についても言及し、アフリカの歴史や現状を自らの言葉で表現する機会となることを期待していることがわかりました。さらに、音楽の持つ力や、言葉に表せない感情を音楽で表現することの重要性についても触れられました。セッションでは他の作曲家‐岡田加津子さん、中村典子さんも自身の作品の作曲のいきさつや背景について語っておられます。 
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6月1日トークセッション 文字起こし

佐藤知久
このお話の時間の司会進行というか、私は佐藤知久と申します。こんにちは。なんで私が司会することになったかっていうと、井上先生と、藤家さんが芸大に来られたときに、僕は文化人類学っていうのを専門にしていまして、ブルキナファソに藤家さんが住まわれているということで、ちょっとそういう非常に作曲家としても稀有な方ですけど、ブルキナファソにお住まいということで、ちょっと文化人類学をやってますので、紹介したい。研究室に来られて、そのときにブルキナファソといえば無文字社会の歴史というか、川田順三さんという、僕自身よりもだいぶ先輩の人が書かれた本がありますねと言ったら、藤家さんはそれはもう私がすごく熟読していて、繰り返し読まれている本だという話で盛り上がり、そのときに犬の話をされて、その犬の曲を書かれたという話をされたときに、先ほどプレイイベントとかギャラリー@KCUAで、ちょうど犬に関連するようなイベントを含む展覧会をする話になって、何かその辺の話をちょっとしましょうか?いうようなことになっています。今日あともうひと方、犬に関わる作家の方がおられて、ちょっと紹介をします。

井上明彦
浅田香苗さんです。彼女はインドネシアでの犬まつわる話をしますが、彼女は聾なので僕が代読する形で紹介したいと思います。

佐藤知久
あのどんな話をしようかなっていうことも、ほとんどぶっつけ本番でやってるんですけど、一つはやっぱり音楽の話をまずしたいなと思っています。あともう一つは今回藤家さんが作られた作品もきっかけになったというか、そもそも何でブルキナファソに行かれたんだろうっていうことが、すごい僕としては気になるんですけど、そのブルキナファソに行くっていうことと、多分その犬を食べるっていうことはやっぱりどっかで繋がってるような気がする。それがその音楽を作るっていうことにも何か繋がっているような気がして、なんかすごい経験をするといいますか、自分の体で自然を経験するとか、音を経験すると何か食べるということを経験するっていうことと音楽を作る関係なんかをちょっとお聞きできれば僕はいいんじゃないかなと、そこにもう一つ大きいテーマとして、生き物を食べるについての話ができたらなというふうに思っているんですけど、そんな感じでちょっと考えてはいます。一つはまずはJosephさん...How did you find Keiko? And I ask you how did you find music of Fujiie Keiko? How did you decide to travel around in Japan, playing music with a special guitar?I gonna ask you.

Joseph Ehrenpreis
I'll answer your first question first, and then the second question. First question, I really love orchestra music, and it's very uncommon for solo instrumentalists to have orchestral composers, opera composers write solo works. Oftentimes they stick to the genre of the large -scale work. So in my search as an audiophile that loves to listen to music, I actually came across Keiko's music pretty haphazardly, just like listening on streaming devices. And I found a recording of her first solo guitar piece, Bodrum Sea, and I fell in love with the sound of it. And I sent Keiko a cold email, like, I don't know, six years ago or something, asking if I could play her score. And she sent me this beautiful handwritten score for the piece. So since then, and following her work. Last summer, it was in Japan as well. And played her violin work, violin and guitar work The Red and the Black, based on Stendhal's novel of the same title.

藤家溪子
Let me translate. 皆さん多分おわかりだと思いますけど、子供さんも来てくださってるのでちょっと要約を、今ちょっと全部覚えてないかもしれないんですけど...まずオーケストラの作品とか大きいスケールの作品が大好きだけれども、ギターというのは、さっき私も言ったんですけど、自分がもし弾けないとすると、書くのがすごく難しい楽器なので、だからいわゆるオーケストラ作品を書く、あるいはオペラを書くというタイプの作曲家がこのギターのためにソロ曲を書くっていうこと自体がちょっとレアなことなんですね。多分自分(Joseph)がそういう大きなスケール曲が好きなんで、そういったタイプの曲を探してたと思うんですけど、そのリサーチに私が引っ掛かったいうか、だけど実際に顔を合わせたのは昨日が初めてで、はい、今の時代ですからオンラインとかでウェブサイトを見て私の作品(サイトが)あんまりちゃんとできてないのでたくさん聞けないっていう今言ってましたけど、その中から私の一番最初のギター作品を見つけてくれて、楽譜をオーダーしてくださいまして...それは、「Bodrumの海」というトルコを旅行したときの思い出の曲なんですけど、はい、それを私が送ったのが、手書き譜だった、それがとても綺麗に書かれていたと言ってくださって、それに印象を受けられた...皆さんご存知かわかりませんけど、今は先進国の先ほどはみんなソフトウェアで(楽譜を)打ちますね。手書きっていうのは何か博物館行きみたいなそんな感じで、その中で私はつい最近まで手書きをしておりましたね。多分彼の印象に残ったんだと思います。 

Joseph Ehrenpreis 

I also want to follow up and say that I'm such a huge fan of Keiko's music. I just love her music in general, not just guitar music, and last year I ended up buying all of your violin scores. I just wanted it to study, even though it's not for my instrument. So I'm just really gracious to have the opportunity to play a brand new piece written for the Brahms guitar. I've just been really gracious to have the opportunity.

 

藤家溪子 

とても褒めてくださってるので、自分で訳すのはちょっと恥ずかしいですけど、とても私の音楽のファンでいてくださって、ギターの曲だけじゃなくて他の曲、去年はヴァイオリンのスコアを全部買ってくださったそうで、ギタリストっていうのは、他の楽器に書かれた曲を自分で編曲して、やっぱ弾かれるっていうのは割と皆さんなさいますので、去年は日本をヴァイオリニストと一緒にツアーされて私の「赤と黒」という、フランスのスタンダールの小説からちょっとインスパイアされた曲ですけど、それを弾いて旅行してくださってたんです。でもちょっと私から、ちょっと待って、Joseph、私から付け加えさせていただくと、私はそういうふうに楽譜を書く作曲家として、ちっちゃいときからつい最近まで生きてきたんですけど、なぜブルキナファソにってその理由はいろんな個人的に言うといろいろあるんですけど、アフリカは、音楽を楽譜に書くっていうことはないんですね。無文字社会というのはちょっと言い過ぎで、ちょっとあの、もちろんエジプト文字もあるし、いろんな文字がありますけどまあ、

佐藤知久
1970年代の...

藤家溪子 

そうですね、いわゆる日常的に私達みたいに何でも書くっていうことは決してありませんで、一般庶民の方はほとんど無文字の生活で、もちろん楽譜もないっていうことで、それは私にとっては非常な大きな挑戦、もう楽譜を書くだけで人生を過ごしてきたので、アフリカで作曲するっていうことは自分で口伝えでみんなに、あなたのパートはこうで、あなたのパートはこうでっていうのを自分で弾けない楽器も含めて説明しなければいけないし、自分が学ぶときも楽譜から今までは学んでたんですけど、全部耳に聞いて覚えるっていうことなんで、非常に大きな変換点、音楽とは何かをもう1回見直すきっかけでした。
 

佐藤知久 

楽譜がなくて、あと川田さんの本の中でその歴史もね、かつては文字に書かれてなくて、そのtalkingドラムって、音楽が言葉ではないっていうか、言葉のように、物を記憶するためのものとして音楽...身体と音楽があったっていうあたりのことを川田さんが書かれてますけど、やっぱそういうそのことに何か惹かれるものがあったんだ?
 

藤家溪子 

そうですね、もうちょっと短い時間でお話しきれないほどこれは重要なトピックなんですけど、例えばですね、最近増えてきてしまってる認知症になった方が、もういろんなことを忘れちゃってて、自分の子供にもどなたですかとか言っちゃってるレベルまでいってても、昔歌ってた歌とかはちゃんと歌える...だから、何かその言葉が言葉として覚えられなくても、節がついてると、それはすごく定着した記憶になるっていうようなことからも、いやそれはどういうことなんだろう?記憶っていうのは脳だけにあるんじゃなくて、よく筋肉記憶とか言うんですけど、歌手とかでもこの声帯のところの感覚で何か記憶してるってよく話してくれますので、そういう音楽と記憶、なんかね、ギリシャの神の、音楽の神ミューズって言いますけど、このミューズっていう言葉はメモリーっていう言葉の語源にもなっているっていうことで、これは突っ込んで、調べてみたいっていうか、調べるっていっても文献で調べるんじゃなくて、自分の体で調べる

 

佐藤知久 

確かに歌とか曲ってもちろん楽譜を見れば全容はわかるんですけど、歌い出したりするときに、歌い出していくことで思い出したり、歌詞を思い出したりして出てくるっていうことがあります。なんかどこに覚えられてるんだろうっていう。わからないけれども、音楽は何かそのことをすごくあからさまに最初のフレーズを聞くと、次の歌詞が出てくる、記憶の中に出てくる

 

藤家溪子 

忘れちゃうと巻き戻して、前の方からこうで、こうで、、こうでとか言って思い出しますよね。

佐藤知久 

なんかそのこととブルキナファソの自然といいますか、あるいは作曲するときの仕方っていうのがなんかちょっと関係してるような気がしたんですけど、例えば、さっきバビラが殺されそうになるっていう話を聞いたときに、そこから逃げるように作曲を始めたという話があったんですけど、藤家さんの中で、その音楽が生まれてくる瞬間みたいなもの、何かそういう自分の感覚みたいなもの、特に感情とか身体的な感覚みたいなものとすごく繋がってるような感じがしたんですけど。

藤家溪子 

あ、そうです。まさにそうです。あの、皆様の中でよく音楽会に行かれる方はプログラムノートというのが配られて、解説が書いてあってこれはこういうコンセプトでこういう考えに基づいて書きましたっていうような作曲家の言葉が書いてありまして、作曲家としてはそれ書かないと、いつも頼まれて書かなければいけないんですけど、何か自分が音楽で表現したことを言葉でもまた説明するっていうのは何か二度手間っていうか、ちょっと焦点がずれていくような、ちょっとそういうジレンマっていうのは、あるんです。それは常々感じてたことなんですけど、先ほど言いましたようにブルキナファソに行ったら音楽は紙に書くものではない、人と人とのコミュニケーションの中に存在しているものだっていうこれを、やっぱり幼少の頃からずっとずっと紙に書いてきた自分としては、そこになれるっていうのはすごく難しかったですね。でも考えてみたら作曲のきっかけっていうのは、このバビラのときもそうでしたけど、もう理屈ではいろんなことが頭に浮かんで、例えば、たまたまバビラかわいいから、殺したくない、食べたくないってなったんですけど、そしたら、毎日自分が食べてる他の牛や豚や鶏はどうすんのみたいな、あと、バビラが食べた鶏はどうするの?昔は自分も鶏を飼っててそれを野良犬に食われたっていう別の立場だったら、そしたら今度、鶏に感情移入しちゃったり、だからそういう感情っていうのは、得てして身勝手なものっていうんでしょうかね。ジョセフさんみたいに、もう生き物は食べない、完全にベジタリアンである、これはまた一つのチョイスなんですけど、自分はそういう決心をないですし、でもでもやっぱりね、しかも自分の自己批判としてバビラがダニだらけだったとき、私はちょっと嫌だなって思って息子がみんな顔見たら、劇とか言って、こいつちょっとやばいよすごいダニ!って、見てごらんよって言われたけど、もう見たくないって、自分は見なかったんです。でも鶏を狩るようになって、多分その鳥の栄養がすごかったんだと思うんですけど、どんどん綺麗になっていった。それがすごく衝撃だったんですけど、そしたら本当に自分勝手な話ですけど、もっと愛情が湧いちゃったんですね。なんかかわいいっていう気持ちが。あっそれは全く自分の素直な感情だったんです。で、バビラが殺されるときもやっぱりセンチメンタルな意味で、じゃ、私はその鶏のお金を弁償するからちょっと助けてやってとかって、その場しのぎはできるんですけど、じゃあバビラを連れて日本に帰るんですかとかね、となったときに、それは、そうするのはどうなのっていうとこがありまして、だけどそれは頭で考えることで、今や殺されんとしてるっていうことで、何かこの辺がしびれちゃったみたい、なんかもう震えるっていうか、これが感覚。言葉ではちょっと説明できない。で、それを何か音にちょっと落とし込みたいっていうか、やっぱり忘れたくないこの感覚を、何でも忘れちゃいますけど、何か忘れたくないことを、ある意味違う形で植え付けるために、自分の肉体に、作曲という手段、自分の場合は。

佐藤知久 

今日の作品は朗読と藤家さんの朗読とあと、その後に音楽があって、朗読の方はある意味淡々とその出来事を追っていくという形で、それでいざ殺されることになった、みたいになったらら曲が始まって音楽の時間がその後に来るじゃない。なんかそのときに、えっ!どうなっちゃうのみたいな気持ちを持ったまま音楽の中に入っていくのは何か新鮮な感じがしてなんか感情持ったまま、そういうシチュエーションをちょっと想像しながら、何かそこでちょっと感情移入もしながら、その後どうしたらいいのかなみたいなことを考えてる時間と音楽が重なっていく感じがして、なんかちょっと面白い、ちょっと面白いや偉そうですけどすいません。なんか音楽とその感情のあり方みたいななんかすごく繋がるような...
 

藤家溪子 

普通映画音楽なんかの場合でしたら、出ている登場人物の感情をちょっと誇張するですとか、飾るみたいな、ある意味、悲しかったら悲しげな音楽やってもっとこう、煽るみたいなふうになっちゃうんですけど、そういうふうにはなりたくなくて
 

佐藤知久 

そうじゃないですよね。何かそのどうしたらいいのかみたいな感情そのものが音になっているというような時間を経験するという気がして面白い。要するに、食べ物の話っていうか、動物を食べるか、べきかいなかというようなことっていうのはすごい大きな、世界を巻き込んだ議論なってますけど、ある意味どうしたらいいか本当にわからないようなこと、でもすごくこう、考えなきゃいけないことだし、特にやっぱり今人間中心でものを考えるっていうことの限界がすごく差し迫っていて、動物もそうですけど、植物とか、もっとその自然環境みたいなものが、人間がやってることで、人間が住めなくなるっていう意味でも大変ですけど、動植物...クマが出てきたりとかですけど、もういろいろ人間がやってることで、私達の生存圏の基盤が、揺らいでいること、その中で僕ら食べたり食べられたり、ま、人間はあんまり今食べられることはないけども、しながら生きていくということにすごく関わっていて、そんな中で人間はすごい勝手に増えてるから、もう食べ物をいかに効率的に作るかみたいなことを考えて、特に動物の飼育環境は非常に劣悪なものがー特に実績から20世紀ぐらいだったけどー最近は少し良くなってるのかもしれないけど、にしても、非人間的というか、非動物的なやり方で食べ物を作っている...工業製品...というようなことって、やっぱり普段はそんなに考えないけどやっぱり冷静に考えるとめちゃくちゃ、本当にめちゃくちゃなことやってる感じがする…人類学者としては、やっぱり生き物が生きていくための一番ベースにはなるのは食べるってことで、その人間が生き物を食べる基本的なやり方っていうのは三つしかなくて、生き物を獲るか、狩猟か採集でとるか、それか農耕か牧畜で動物と植物の生殖サイクルをコントロールしてそこから上がりを取るか、いってみたら3種類というか2種類しかないんです。そのままなってるものを取るか、それが増えていくプロセスを利用して、その上がりをとるか。
 

藤家溪子 

農耕牧畜か狩猟採集

佐藤知久 

農耕牧畜は基本的には同じようなことで
 

藤家溪子 

対象が違うだけで
 

佐藤知久 

動物が増えるプロセスのうまくコントロールして人間に都合がいいようにね。植物が増えるプロセスをコントロールして...それの何か行き着く先が、工場製の野菜とか、工場みたいなところで作られてる鶏肉とかってなるのが...それでいいのかなっていうのは実はやっぱり僕はやっぱ考えない。
 

藤家溪子 

そうですね、ブルキナファソとかは世界最貧国の一つなんですけど、さっきあの芸大の方のプレイベントでも言ったんですけど、全部放し飼いにしてて、囲い込んで効率よく増やそうっていうのは、ちょっと西洋からそういう考えが入ってきたり、先進国からの指導でそういうことが始まりつつあるんですけど、元々はないんです。ですから動物はみんな好き勝手してて、交尾もしているし、そういう意味では動物が幸せって言い方ちょっと変ですけど、そういう動物らしく生きている。でもこういうふうに一種の掟がやっぱりコミュニティですからありまして、それのタブーに触れちゃったら殺して食べる。でも本当にマブドゥのためにちょっと言い訳しなきゃいけないんですけど、彼らはほとんど毎日肉とかは食べてないんです。さかなも毎日ではないですけど、ブルキナファソに海がないもんですからコートジボワールとか、隣国、海のある国から届けられてくる鯖か鯵、このぐらいの一切れを8人で分けて、毎日、だから一口ずみたいな感じですね。動物はもう羊、山羊、豚とかありますけど、本当にお祭りのとき、子供が生まれたときとか、結婚式、大きな一周忌とか3周忌のお葬式、こういうときにしか食べないので、一概に野蛮な人たちが犬を食べてるとか、そういうふうに誤解されないようにちょっと私もいろいろ説明はしたいんですけど...
 

佐藤知久 

そうですよね。元々長く人間を狩猟採集の時代があったわけですけど、その狩猟採集民の頃も動物をバンバン殺しまくって、マンモスとか倒して食いまくってるみたいな感じが全然なくて、やっぱり肉が獲れるってすごく難しいですね、狩そのものやっぱり難しいし、動いてる動物を本当簡単な道具で殺すわけですから、なかなかすぐ捕まるわけじゃないから。基本的には植物性の食べ物でベーシックな栄養を得て、たまに肉が来るっていうのがかなり長い一番人間がそれで生きてた食生活のあり方と考えられている。だからでもやっぱり肉ってすごくやっぱり美味しいじゃないですか、じゃないですかって共感を求めるほどにおいしくて、それはやっぱり何か僕らが生きていく上で必要、僕らというか人間が生きていくという必要なそのタンパク質とかがすごく豊富に入ってる、効果的に摂れるっていうことで、これが美味しいと感じることによってそれを食べ、必要とするものを体内に接取する。そういうふうにこう、生物として食べてうまいものを食べようみたいなそれを取ろうみたいなふうに進化してくるというか、そういうふうになってると思うんですよ。ただ、その肉旨い、みたいなことを、なかなか技術がなくて取れないときにはバランス的に良かったんだけど、バンバン技術力が上がっていくらでも食べられるようになったときに、旨いからってバクバク食べるようになっちゃってるっていう感じはします。量のリミッターが外れているというか。すいませんなんか...
 

藤家溪子 

でも犬肉に関しては...
 

佐藤知久 

犬の話に。
 

藤家溪子 

日本でも結構最近まで食べられていた、もしかしたら今も食べられているかも、ですけどちょっと日本はとりあえず置いといて、インドネシアの犬食の話をビデオを交えて

井上明彦
そこにですね、床の間みたいなところがありますけれども、あれはどこまでなくて元々は押入れなんですけど、押入れを床の間化したところ、そこにとても綺麗なバナナに包まれたような犬の絵がありますけど、それは宮古島の野良犬でした。その絵の作者の、先ほど紹介しました浅田香苗さんが、引き取って、ミモと名付けて今も飼っています。浅田さんのことを改めて紹介したいと思います。浅田さんは2000年に京都芸大の大学院の版画専攻を修了した後、インドネシアの国立芸術大学に留学していたんです。帰国後は主に水彩画を中心に活動を続けておられる。浅田さんは生まれつき聞こえないということから、違う者同士が共存するということをずっと考え続けておられる。浅田さんはインドネシアに住んでいたとき、これはミモっていう、さっきの絵の方はミモですけども、そのときネモと名付けた犬と出会います、そこに描いてあるミモはこのネモの先代にあたるんですけれども、そのネモのことを浅田さんの言葉でお話したいと思います。私が代読します。2分ぐらいですのでお願い致します。「私はジャワ島の小さな村に住んでいた。肉屋におろすために、繰り返し仔犬を産まされる犬がいた。寄ってきた1頭の仔犬を友達が買った。突然うちに連れてこられた仔犬は、部屋の片隅で震えていた。鶏肉を小さく砕いたものを食べさせた。日増しにたくましく育ち、兄弟の中では飛び抜けて大きかった。バナナが茂る密林をかけまわり、夕方になっても帰ってこなかった。店頭に並ぶ光景が頭に浮かんだ。小さな兄弟たちは売られていった。そして母親犬もいなくなった。ネモが村を去る日、村中の人々が見に来た。関西国際空港に降り立ったネモは、冷たい大阪の空気に触れて、震えていた。ジャワよりも暑い夏、ジャワよりも寒い夏を幾度も繰り返し、ネモは17年生きた。肉はすっかり削げ落ちて、植物が枯れるように息を引き取った。」これが佐田さんのネモのお話です。
 

佐藤知久 

付け足したいこととか?

参加者1
じゅうぶんって。
 

井上明彦 

じゃあこれから皆さんにいろいろ...
 

佐藤知久 

そうですね、なんか、もう一つブルキナファソ的音楽でやっぱり大きいのは、演奏する人と見る人の区別がないんだそうです。
 

藤家溪子 

あ、そうなんです。まずこんなちっちゃな、小さな音で演奏する楽器がないんですね。で、私が自分の曲を弾いてもらうときに、そこんとこもっとおとなしく弾いてとか、ちょっと静かにやってとかいうと全然通じないんです。わかった!とか言いながらまたすごいすごい勢いで、ま、だいたい屋外でやってますので、あと聞く人も皆様のように静かに聞いてくださるということはまずなくて、音楽始まると体を揺らすし、もう立って踊りに行ったりとか、そういう文化で
 

佐藤知久 

今日はね、あの、今日はねっていうか音楽を聞くときは僕ら何となく静かに聞いたりする訳ですが、もうその後のトーク、この後もう皆さん
 

藤家溪子 

そうなんです。だからこれはちょっとブルキナ化して
 

佐藤知久 

言いたいこととかあったら、ちょっと言っていただきたいと
 

井上明彦 

でもこんなに少ない人数で、今日藤家さんと話してたのが日本ふうに話す人と聞く人がわけないような、ブルキナふうなやり方ができたらなと言ってて、せっかく来られてるんで、1人ずつやっぱ自己紹介っていうか何か話していただいてどうかなと思う。今日の演奏のことでもいいです、一言言ってもらったらどうでしょう。
 

藤家溪子 

あのもう演奏のことでも食べる、食べないのことについてでも、何でも皆さんの考え一言でも二言でも伺えたらと思います。
 

井上明彦 

じゃあ、どこから行きましょう。そっちからいきましょうか?こういうふうにくるっと回りましょう。何か別に言うことなければ、名前の自己紹介でも。彼女もうすぐ個展が始まるんでそこで案内状がどっかあったと思うんですけど、今日今回ここに、このスペースを一緒に作った若いアーティストたちが何人か来てくれてます。彼女もそうです。
 

藤家溪子 

リノベーションそうですか?
 

参加者2 

はい、いや本当です。その感じです。

井上明彦 

どうでした音楽?なんか...
 

参加者2 

犬の話も私何も聞いてなくて、詳しく全然知らなかったので、そういうことやったんやって初めて来て、なるほどってここにあった写真とかを見ながら…なんかその、ここに動いていた、あの生き物の肉を食べているっていうとこの語りがすごく新鮮で、多分誰しもそうだったと思うんですけど、実際そういうふうに肉を感じながら食べることって今ないことなので、すごくそれが音と一緒に曖昧に入ってきて面白かった。
 

井上明彦 

ありがとうございます。前の佐山さん…Sさんは実はラパラカっていうモロッコ料理の店を今されてて、ちょっとシェフは今モロッコに行ってるんでいないんですけど、今日は来ていただいて

参加者3
夫は...
 

井上明彦 

ご主人がモロッコ人なんです
 

参加者3 

本当はモロッコ出身でベルベル人です。砂漠のブルームと呼ばれています。今日のお話もすごく興味があったのは、実際ブルキナファソの在日のブルキナファソの方々も結構よく来てくださってて、ブルキナファソに限らず、アフリカパワーってやっぱりすごいなって。今日も来る前に話してたんですけど、これ偏見じゃなくて何となくイメージなんですけど、アイスランドの人10人とブルキナファソの人10人のパーティーの模様って言ったら全然違うんでしょうね。アイスランドの方はパーティーされたことないんですけど他のマリやったり、いろんな国の方々、結構来られるんでね。うん、犬のお肉を食べる話も、うちは飲食業ですけれども、174カ国の国からお客様いらっしゃるんです。各国国っていうよりも大きいエリア、中東やったり東アジア西アジアとかのところの単位で考えたら、、やっぱりそこそこでとれる食、食べ物の種類とか量とかによって、そこの方々の食に対するリスペクト感が全然違うんですよ。やっぱり農耕やってるところ、自分たちで食料を作ってる、あるいは採ってきてるという国の人、それで成り立ってるところはリスペクトが高いです。だから綺麗に召し上がる方が多いです。でも例えばほとんどがそういうものが国でとれなくて、全部輸入、そして作る人が他にもおってっていう本当に繋がってない,食べ物とこの能が繋がってない国の方はやっぱり感覚が育たないんやと思うんです。うん食べ物の残し方注文の仕方で全部がやっぱり違う。これは違う環境で育っている私がいいとか悪いとか是非をいうものではなくて、いろいろお店あって14年半ですけどその中で自分たちなりの何かデータを集めて分析したらそんな感じになってる。中国語犬食あるし、私は父が韓国で在日韓国人三世です。もう韓国も犬食があります最近法律では禁止されましたけど、まだあります
 

藤家溪子 

どうなんですか?それはやっぱり禁止されたことに不満な方々も
 

参加者3 

好きな方は...
 

藤家溪子 

犬牧場が1000以上あったって書いてました。
 

参加者3 

ありますね。でも、それも考えたら、日本の育った感覚でやったら犬は愛眼のベッドっていうことから入るから、多分そうなるんだろうけれども、そうじゃなかったら犬を動物の肉の一つなんですよね。
 

佐藤知久 

なんで犬だけが
 

参加者3 

うん、でその戦争時分とかだけじゃなくって、人肉も食べる部族があるらしいですよね、亡くなったら。そうするとそれもやったら、人間も動物じゃないですか。ある意味、貴重な蛋白源っていうか、食料減やからそういうことを考えるときは、結構感情で、殺すからかわいそうとか、何かとかっていうのはちょっと切り離して、分析していく必要があるかなと思いながら聞いてます。うん、すいません長くなりました。
 

井上明彦 

あ、横の方
 

参加者4

私Sさんとお友達の体操教室を一緒に仲良くなってラバラカの大ファンで、去年のもうちょっと6月半ばから1ヶ月間、ムーちゃんって旦那さんのところに泊めてもらって行ってきました。私は5年生のときに加藤稔先生って小学校の先生が「昔アフリカにはなってベルベル人っていうのがいて、ベルベル人がずっとサハラ砂漠のところをずっと生活してたんだよっていう話を、5年生のときにしてくれたんですけど、、誰にベルベル人って言ってもそれがね間違いで電話を発明した人のよって。そうです、そうなんだってそのときはわからないまま人生ずっとそれできて、突然体操教室で知り合って、お店に寄せてもらったらムーちゃんがベルベル人だったんです。もう衝撃で、でもいい国でした、モロッコが。とっても。急にモロッコ大ファンになって、ベルベル人が良かったのかモロッコが良かったのかわからないんですけど、よかったです。自然がいっぱいで、なんか本当に皆さんが自然とともに生きてるっていう、だから私達は犬って言わずにワンコって言いますけども、ワンコが食べられるっていうのは、本当にショックで、あそこに出てたワンコは私が小さいその5年生ぐらいのときに飼ってたコロちゃんという犬とそっくりなんですね。コロちゃん思い出してですよ、5年生の頃ですだから胸がもういっぱいだったんですけど、でもね、いろんな国でウサギ食べるとかワニ食べるとか、それこそね、いろいろあります。芋虫食べる国もあるし、だからやっぱりSさんがおっしゃったみたいにその土地土地の文化で、それでさっきのワンちゃんを小鳥を鶏を食べたからそれはいかんということで、それをまたたべなかったらどんどん野良犬が増えていくのかもしれない、わかんないですよ。私なんか日本人みたいに。でも私が5年生の時には犬取り屋さんていたんですよ。保健所の白いの着て、輪がかけて犬取るんです。輪っかの針金でキュンと。あれを見るのがつらく、私はなんと昭和26年生まれですけれども、だからもう今もうすぐ73ですね。全然違うので、私の話は昔の話で
 

佐藤知久 

逆にその野良犬がいなくなったのはなぜなのか
 

参加者4 

そうなんです。そうです、ブリーダーっていうのがその権利を持って、めちゃめちゃな育て方をしてるんです。かわいそうなんですよ、だから何がいいのか悪いのか、さっきね先生がおっしゃったみたいに、人類学者としておっしゃったその、食べ物を農耕するのと、狩猟するのと本当にね、考えなきゃいけない時代がやってきて、この頃ね生協で私買い物するんですけど、多くがレトルトになって、もうそれをチンするだけ。それかもう切ってあって、ママでもパパでもフライパンで炒めるだけ、そんなのないですよね。食べ物に対する敬意がないじゃないですか。商品です。私達のときは人参、これは土の中に育ったよって人参皮も食べれるよ、母なんかは大正15年生まれの人だったんでほうれん草をゆがいたお湯で、昔湯沸かしなんてうちないですし、ほうれん草ゆがいたお湯で顔を洗いなさいと、そもそもお湯は勿体ないから、そこにはビタミンCがあるからって、何か訳のわからんこと言うですよね母親は。だからね、そんなとぎ汁と、もちろんとぎ汁なんて私は今まで私はずっと母の教えで生ゴミは全部穴を掘って庭に埋めてます。ミミズさんがいっぱい増えてきたら、やれやれと思うんです。そんな人ね、うちの長男やら、界隈にはいないですよ。だから私のゴミはこんなちっちゃい。。そうみんなのゴミがこんなに大きい。そうです。だからごめんなさい。
 

佐藤知久 

いやいや、なかなか聞けない話で大事な話が続きそうです。どういったらいいのか、でも生きるってことは本当に毎日ありがたいと思わないかんです。
 

参加者4 

本当そうですね。
 

藤家溪子 

私も同じようにずっと、あのコンポストっていうか、何も使わないで生ゴミ全部埋めてたんです。
 

参加者4 

やっぱそうですよね。
 

藤家溪子 

その果てには自分で自給自足に近づきたいと思ってたんですけど、そしたらミミズがいっぱい増えて、そしたらあの狭い庭を持ってると、もうねカブトムシの幼虫がいっぱい。
 

参加者4 

そうです、
 

藤家溪子 

はい、そしたらそれを殺すのはどうなんだろうって...
 

参加者4 

殺せないですよ。今日も毛虫三つ見つけたけども、あんたたちちょっと元気に育ちなさいって隅っこにやって、生き物に対してと言って仏教徒でも何でもないんですよ。
 

藤家溪子 

でも野菜を育てるのにどれだけの虫を殺すかって考えると、もう複雑で
 

参加者4 

そう、だからジョセフさんがベジタリアンでいらっしゃるっていうのは、気持ちはわかる。うん、わかります、とっても、うん。こんなとこで喋るなんてこともない普通、オバタリアンの会話。
 

井上明彦 

いいえ、いい機会ですから
 

参加者4 

でも今日私はアフリカの布を持ってきたんです。
 

井上明彦 

ああ、ああそうです。
 

参加者4 

アフリカンを敬意を表して。
 

井上明彦 

ありがとうございます。
 

参加者5

もう話すことはないですね。ちょうどあのさっきの会場からここまで歩いてきて、同い年だって笑って今のお話も全部私と一緒ですね。もうあの代表でしょう。ありがとうございます。だいぶ前になりますけど中国の田舎へ調査みたいなことで行ったときにね、ご馳走をっていうので、あの犬のお料理は出してくださった覚えがあります。そうだったと思います。そうだった。でも私は申し訳なかったけど、他にもお料理があったからだけど、犬のお皿には手が出せなくてごめんなさいでしたけどね、そういうことはありましたね。あと、韓国の田舎行ったときにも、おばあさんがうちで飼っている鶏をね、今日はお客さんが泊まるから言うので、つぶして料理してくれたんです。そしたら、それはいただきましたけど、あの周りで遊んでる鶏がね、あの料理した残りのいろんな部分が、下水のようなところにあるでしょう。それを、鶏つついてるわけですよ。自分の仲間であったり親だったりするかもしれないのに。そういう、じかにさっきの話の続きになるのかもしれないけど、食べるっていうことが目の前で命があることと、その命を次へ譲ることとみたいに、じかに見せてもらうっていう機会、それは本当にもしかしたら同じように思ってくれてるかもしれないけど、小さい子供たちに、私達にとっても新鮮だし、衝撃だし、考えることが多いんだけど、小さいときにもっとそういうのに接しておくっていうのが大事なのかなと思います。5年生ぐらいまでに5年生のときはしっかり覚えてますから大変な時代に来てるなと思います。
 

参加者4 

ものがありすぎるでしょ
 

参加者3 

何かそれで完結してしまう。
 

井上明彦 

せっかくなんで、お母さんが来られてるから、あの音楽の話でも結構ですよ。いやいやもうこの部分って福祉したりしますよねずっとね、お母さん考えてたんです。

参加者6

溪子の母なんですけども、いつもありがとうございます。なんのアフリカに行ってしまったそのきっかけはまたいろいろ、ここではお話しないと思うんですが、私もなんかあっという間に行ってしまってもう4、5年、時々帰ってくるんですけれども、一番感じたことはLINEなんかの写真でね、アメリカに着いたよって、日本から帰って、それで空港にマブドウたちが迎えに来てくれた写真を送ってくれるんです。そうするとねさっきまで日本でバイバイってバスに乗って行った溪子と表情が全然違う。
 

井上明彦 

わかる。
 

参加者6 

どっちかと言ったらもうね、彼らも、もう本当にもうニコニコ笑ってばっかりです。それで溪子がね、あんな難しい顔してないんですもんね、なんかね、心から楽しそうな顔して、いや、アフリカにいる方が幸せなのかなと思うぐらい。でも楽しくやってるのか、すごくつらいことも慣れるまではつらかっただろうし、そんなこといちいち言いませんけれども、その今の話とかなんか聞いてると、うん初めて聞いたこともあるんですけれども、でもなんかアフリカの自然とか食べるものの生活とか、それから子供たちのあのつぶらな瞳とか、そんなの見てるとね、日本では失われてしまったかなっていう部分がすごくあるんですね。子供たちがね、幼稚園の、こんな道路歩いて歩かされてる子供たち見てもあんなキラキラした目してないし、だから何が違うのかなって思ってしまいます。まだお話、食べ物のこととか、ちょっと言っていいですか。私がもう20年ぐらい前からよく北欧の方に亡くなった主人と2人で行ってたんですけども、北欧を主にノルウェーとか、それからグリーンランドに、気に入ってしまって3回行ったんですよ。1ヶ月ぐらいずつ3回だから結構行ったんですけど、ああいうところアザラシが主な食事で、それからシロクマがみんなね、見つけたらキャーっていって喜んで写真撮るけど、シロクマはめったにとれないんだけどシロクマを獲ったときには、やっぱりそれを食するんですけどね、さっき伺ってたみたいにやっぱりそんなしいく飼育して、食べるわけじゃないからたまたま獲れたときに、アザラシだってそんなしょっちゅうがとれないし、それで大事にいただいてもう皮から骨から、うん全部使うんですよね。ありがたいっていうのは聞いたことないですけどね、でも本当に全部食べさせていただいてるっていう、そういうのを見てて、やっぱりそういうのじゃないといけないんだって、彼らは永久凍土だから植物がほとんど。ないんですよね。だからビタミンCをどこで摂るのかなと思ったら、アザラシが何かを食べて、アザラシを通して、そうですね、そういう栄養を、うん循環ですか、そういうのを自然に守って人間もその一つの循環として生活してるのがいいのに、あまりにも今はちょっとずれて人間一番偉いんみたいにして、それが本当に心痛んでいます。ありがとうございます。
 

井上明彦 

先生せっかくなので。
 

参加者7

私、Kと申します...ご縁がありまして、藤家溪子さんとちょっとお知り合いになり、お母様と今楽しく音楽をやっている。歌の歌の先生、そういうものですけれども、私には整体の先生という師匠がおりまして、その方のすすめでいろんな食生活をちょっと楽しむようになりました。動物がかわいそうとか、そういうことではなく、ベジタリアンを完璧なベジタリアンを、ビーガンですか?ビーガンを2年間やったことがあります。だから、もちろんお肉とそれから卵とか乳製品ですね、それも全部やめて、夫のために作る豚肉の入った炒め物と私のためのご飯の菜箸まで変えて、絶対に2年間は何かそれを、それが楽しかった。楽しめました。
 

参加者3 

横ブレした時代ですよね。ビーガンになったときって、極端にこっちにバーンって横ぶれするじゃないですよ。私も1年半ぐらいからしてました。
 

参加者7 

楽しいかったですね、非常に。すごいただただやっぱり人のうちにお呼ばれをしたりとか、それはその気持ちをいただくその方のお料理の気持ちをいただくということだから、それはもうそういう境目はつけずに、ありがたくお肉とかも、ちょっと抵抗ありましたけれどもね。うんそれで面白いのが、去っていく友達もいた。ご飯に誘ってもらえない。あの人はちょっといや難しいからって、それでも、あのお店を見つけてくれて、誘ってくれる友達もいた。なかなかそういうのもね、面白かったし、あとお酒好きなんですけど、お酒がブドウ由来だったり麦由来だったりしてよかったと、思いましたね。それからいろいろあって食生活も今は戻ってきていて牛さんも豚さんも鶏さんも今、今はいただいているという状況で、この間ちょっと溪子さんとね、お話させていただいたときに、私名神高速道路をよく使うんですけど南インターから東インター京都、なぜかよくドナドナに会うんですよ、すごくなんだかすごくあって、何かなんだろう、かわいそうとは思わないことにしてる、だっていただくんだから、食べるし私はね、でも、何か声がかけたいですよね。で、1人で車に乗っていて、大きな声で牛さんに向かって、ありがとうありがとうって必ず言っています。そういうことにしています。でもちょっと渋滞とかあると、言ったのにまたすれ違う、ちょっとそういう状況があったりもするんですけれどもでも、ちょっと最後に言いたいのは、コオロギ食だけはちょっと、やめて、勝手に粉を混ぜられているとか、それだけはちょっと何かの代わりにされたりとか小麦粉の代わりにされたりとかどういう意図があるのかわからないけど上の人たちもね、ちょっとそれは嫌かな。そのコオロギ食はは世界的なことで、何かイタリアでももうパスタのなんかそれに混ざってるとかって言うんで、ちょっと名前を変えてネーミングを変えて何かやられてるみたいな、ちょっと趣旨が違ってきてます。
 

参加者3 

 私も言ってもいいですか。私も完全にビーガンだったとき横ブレしたんですよ。完全に決めたんですよ、1年半でも私自分の信仰の問題で1回やってみたんですね。だけど久しぶりに肉を食べてみたんですよ。うん。そしたら、まだ美味しいっていう自分がいた。そうです、私は動物がかわいそうっていうよりも、自分が美味しいってまだ思う程度の人間なんだと思って、肉食をもういっかい受け入れる形で。 
 

参加者7 

何かを超えた社会性をつけて分けてしまうっていうのは... 
 

参加者3 

知った瞬間っていうのは、完璧にしようってするから、私の場合は横ブレ、バーンてしてました。
 

参加者7 

そうですね...
 

参加者3 

もう今はもうもうめちゃくちゃなんでも食べます。

参加者7 

すいません、私これ最後で...ちょっと音楽の事、さっきのギターの音...全然関係ないですから...開放弦のあれが聞きたい。
 

藤家溪子 

いや、普通に下からMi‐La‐Re‐Sol‐Si‐Miなんですけど、その4度上のLa、あと一番下のMiの4度下のSi。
 

参加者7 

なるほど上下、そうかなと思いながら。 ちょっともう ...


藤家溪子 

(調弦は)変えられますけどね。
 

参加者7 

でもそんなかっこいいと感じちゃいましたね、上下、うん面白い。あれなんかすごくドーンと響いてなんかすごく素敵で、あの立体的に聞こえる楽器だなと思います。
 

井上明彦 

本当本当、本当本当
 

藤家溪子 

ありがとうございます。
 

井上明彦 

若い方々...ちょうど年配の話が面白すぎたんですけど...A先生何か?こう回りましょう。
 

参加者8

ありがとうございます。今日犬っていうことと食べるっていうことでちょっと学生時代こうしたちょっとエピソードを思い出して。学生時代に、3回生ぐらいに春休み初めてパック旅行でベトナムに行く機会があったんです。中国の国境の山の上のモン族っていう部族のいるところにバックパックで行って、朝一番起きたんです。朝一番始まる前の時間帯で、何か電車の駅に犬が寝転がってたんで、寝てるんやなと思ったら、しばらくてもういっかい昼過ぎぐらいに戻ってきて、また犬寝てるわと思って通りすがりにぱっと見たら、ここまでしかなかった。 犬食べるんやって思って、僕は犬食べる機会がなかったんですけど、こういう文化のとこなんやなって。その後またベトナムで、ある人の、高齢な人の知り合いの代わりに山奥の農家の家族に会いに行くっていうのを代わりに行って、ランドクルーザーみたいなんで、二、三時間ごとごと揺られながら村に会いに行ったんです。  そのとき僕らも、さっき話してたみたいに、お客さんなのでもてなしてもらって、ご飯がたくさん出てきたりとか、家で作ったお酒みたいなのも出てきたんですよ。ちょうどそのとき鳥インフルエンザが流行したころで、メインに並べられた料理が鳥をちょっと塩とかでゆがいたようなものが大皿に盛られて、上に足がチョンチョンと乗っかったみたいな料理でした。 一緒にいた友達とどうしようみたいな、そういう意味じゃどうしようと思ったら、けども向こうは僕らが食べないと、もうどうぞどうぞって言ってるんで食べようかと食べたんですけど、半生みたいな状態でこれ食べられるかなと思った。ちょっとトイレに、お酒飲んだらトイレに行こうと思ってトイレを案内してもらったら、ちょっとお尻を出した先には豚がいて、後ろにも豚がいて、その前には鳥が走り回ったんで、そのときにやっぱり何か鳥が走り回っているのとか見たりして、今日はやっぱり特別なご馳走出してもらってるんだなっていうのを気づいて、完食したっていう感じの思い出を、うん。思い出し、ちゃんと僕も出されたものっていうかね、ちゃんと食べるっていうか、とか、家でも作ったものを子供に食べなさいよみたいな言ってるんですけども、最近結構健康指導みたいなの受けて話してると、お父さん家でご飯食べてるときにはよくお父さんが大体残ったのも食べたりして、そういうなかなか痩せれないとかあると思うんでちょっと控えましょうねって言われてるんですけども、結局やっぱり毎日腹いっぱい食べるのでなかなか難しいなということ。
 

井上明彦 

ありがとうございます。何か喋る?最年少。今日のどうでした?音楽とか...みんなの聞いた話 。

参加者9
なんかブラームスギター初めて聞いたんですけど、すごい小さい音も出る楽器なんだなと。

井上明彦 
ねすごいよね。立体小さい音から大きな音までね、本当立体的でしたね。みんな初めてですよね、聞くの。うん。ちょっと話を戻すと、今日のこれって画期的だと思うんですよ。音楽、曲が作られるベースと一緒に話がされて初めての曲が聞けるプランみたいな、これ本当にあり得ないことかなと思うんですよね。普通出来上がった音楽だけ聞くんですけども、僕も作ってたから、どこから先に立ち上げるかっていうのはすごく気になる方なんですけど、今日そこから含めて話聞いてたので、とっても得難い機会だし、ギターというのは全然わかんなかったんですけど、こんなに立体的な音が出てすごいなと思って、本当にものすごく貴重な経緯。ちょっと音楽の話に戻ってしまってすいませんけど、なんか本当にあの音楽が生まれるベースになっている経験っていうのが一緒に聞けて、それで皆さんもこれで自分の経験、そこからちょっと話するっていうすごく稀な機会、実はしてるなって聞きながら思ってもこの貴重な話もすごいんだと思う。なかなかこういうふうに話を聞けるっていうのは今ないんですよね。あの藤家さんと言ったのは、アフリカだったら普通世代とか関係なく集まってワイワイダラダラ喋ってるわけだし、浅田さんが行ったインドネシアでもノンクロンといってダラダラ喋ってるんすよ。今日先ほどおっしゃったみたいに私、日本人何か大きなものを失っていることは絶対確かなんですけど、なんかそれも、今日思い出させていただいたりとかして、すごい話な内容になってるなって僕は思ってます。ちょっと話、余計に挟んでしまってすみませんけど、その横に行きましょう。あ、戻ってきた。せっかくなので佐藤さんお願いします。一緒にここのスペースを改装してくれた佐藤さんです。執行ともここのアーティストです。
 

参加者10

いろんな世代の生活の話を聞けるっていうのが面白いなと思って見てたんですけど、まあ私今20...今年29うんなのであの多分、若いに入る世代だと思うんですけど、生まれと育ちが大阪の中心部で都会だったんですけど、都会ゆえに家には庭とか土がない環境で育ってました。まあ公園があるんですけど、そこはまあ遊び場でやってはいけないことだらけな感じでした。まあ、まだその両親がこうなんていうんでしょう、植物とか生き物を育てるの好きだったので、ベランダとかでブランターとか水槽とかで育てたりはしてたんですけど。なんかこうなんて言いましょうかね。自分の生活体験に自然が自然にないっていう状況でもうあの長い間過ごしてて。でもまあ、その中でその小学校なり中学校なりであの同じような環境で育ってる学生が集まるので、やっぱりその学校の教育の中にはこう、作物を育てましょうとかだったりとか、うん、あの修学旅行とかも漁業体験に行ってみましょうみたいな形で、どこかでこう、自然というものとの接点を、いろんなところでこう持たせてくれてたんだなっていうのは、今思ってるんですけど。なんか未だにやっぱり本当の自然との関わり方みたいなところは体感としてまだ得てなくて。どうしてもまだ想像の世界じゃないですけど、なんかこうとても憧れが強いというか、なんか自然にその触れ合えてる環境が、まあ、今までなかったっていうことがあって、どう接してもなんかこうなんて言うんでしょうね...自分の中で自然に自然というか、体験としてしか残らないみたいな感覚になって。でも、なんかそのまあ現代が生きてるっていうこともあるし、その今までのこう生活を知れる機会がある中で、こうこういかに自分が自然とどう自然に触れ合えるようになるのか、みたいなところにもずっと興味があるっていうのがあって、で今回みたいに犬食っていうことも全然知らなかった。で、あのお肉を食べるっていうことに対して私の感覚だとかなりエネルギーがいることだなって、いつも思うんですけど、そのタンパク質を得ることが自分にとってすごいエネルギーがいる。エネルギーになるんですけど、食べるっていうことに対してすごくエネルギーがいるなっていうのは、なんかこう野菜とかより感じていて。でなんか物心つく前ぐらいの自分の食生活を思い出すと、こうちょっとお肉とかを遠ざけてたなんかこう気配があって、なんか形が見えてしまって、生き物の形が見えてしまうものをちょっと避けてた子だったみたいなんですけど、でも。自分も人生の中でどこかで美味しいと知ってしまって、もう普通に食べてる自分もいない?っていうことをなんかこう。今思い出したりとかしてました。なんで私の体験としては、なんかこうまだこうなんて言うんでしょう、いろんな情報が新鮮というか、自分の体験に落とし込みつつも、なんかこう。本当の意味で自然との関わり方っていうのをなんか関わりたいなっていう感じですね。今日の音楽もあ、音楽も聞かせてもらって、その音の中になんかすごく自然の音、あの勝手な想像なんですけど、自然の中にある風の音だったり、川のせせらぎだったり、なんか弾くような音も混じってたりして、なんかこう、環境音じゃないですけど、メロディの中にこう自然の音がちりばめられてる感じを感じて、お話の後にその音楽があったので、そのお話がその音楽聴きながらこう映像で再生されてくるようなものなんでそういう楽しさがあった。
 

井上明彦 

じゃ、Xさん、感想ない? 

ああ、確かに彼女もおんなじようにそこにスペース作ってくれた人です。


参加者11
なんか今日の全体の会を通して印象に残っているのが犬の名前のトゥーパスっていうのが一般的だとうん、すべては過ぎ去るっていう意味だそうですが、その犬食とかギターとかを聞いて、でもなんか全てに今日の会の全てにそのトゥーパス という意味とか響きとかがすごいピッタリですね。なんかいい言葉を知ったなと思いましたね。
 

井上明彦

せっかくなので何か...

参加者12

初めまして。奈良県のあの当麻寺というお寺。その中に塔頭が、あの四つぐらいあるんですけど、あと、まだあの護念院というお寺、その住職が私の旦那なんですね。私はでも本当に大阪生まれの大阪育ちで、大学出会ったので、全くお寺とは関係のない核家族で育ったので、もう本当に未知との遭遇みたいな気にする結婚でした。でもあの逆にその。新鮮な目でお寺というものを見ることができましたので、当麻寺の中でも、あの護念院はずっと昔からの行事をそのままやっているところでした。でしてまあ、古くから言うと、その当麻寺、あの文化財になっているのが、ちょっとお寺の宣伝になりますけど、当麻曼荼羅というものが有名なんですね。この秋に、あのええ、京都国立博物館にもまた参ります。あの中条姫というお姫様があのまあ織り上げたと言われるもの。それが実際に京都に、あの奈良から出る初めての機会とですね。今、東京国立博物館から今度京都に行きますということなんですが、その姫が住んでいた場所なんですね。で住んでいた場所なんだというのを、あのなかなか実感できるものがなく、ただ一つだけ。年に一回、その練供養会式というのがあって、ええと実際に仏様が来迎する様を演劇化したものなんで、それがあんまり知られてないかもしれないというか。まあ、ニュースに出たりはするんですけど、でもその内容をどういったものなのかとか、その歴史を調べていると面白くて、全く仏教にそれまで縁がなかった人間が見た時にすごく不思議でたまらなかったし、千年以上その続いているということ自体がミラクルだなと思って調べて。そのうちに、あのう、すごく面白くなってっていう関わりの中でですね、えっと藤家溪子さんがええ、ちょうどそのね、対馬の活動で古代琴を調べ中で大和の地域へ来てくださり、そのご縁で、たまたま本当に家に訪れてくださったのが縁でもう約十年近く前になるんですけれども、その縁であの一緒に対馬でもお話もさせていただいてという...その対馬の方たちの方も(ご縁が)ずっと続いているというのが、本当に人と人の人の縁っていうのって、まだまだ残っている場所でもあります。でも、その人と人との縁っていうのは昔はっていうのがあるけれども、今って本当にどんどん家社会っていうのも変わっていっているので。日本の急速にこの十年、15年で田舎でもやっぱりいろんなことが変わっていきますけど、でもやっぱり基本的に人間なので、5000年前でも7000年前でも同じように人ってやっぱり変わらなくて、やっぱり何かを食べなくちゃいけないし、あの先ほどの話って本当に殺生っていうこと。本当に深い話で昔はずっとみんなベスタリアンでビーガンだったんですよ。だけど、あの今はええと仏教の人でもええと宗派によりますが、ほとんどの宗派では許されてます。ええ、許される、で私も普通にそうやって育ちけれどもあのお寺に入ったからというわけではなくて、あの人ってやっぱり何かのタイミングであの、例えば私の友人なんか、まあ、あのええと香港に住んでたこともあるので、その香港人の友人なんかは、あのCovidの時にやっぱりいろいろ考えて、肉食が食べれなくなったっていう人もいたりとか。あとは年齢にもよるかもしれない。私も別に、あのもうちょっと食べない方ではなかったけれども、なんとなくあのお豆腐とかでタンパク質があるやんみたいな感じに寄っていったりとか。まあ、それは人それぞれによっていい、どっちでもいいのかなって私は思っていて。ただ、そこにあの今までのお話の中にも、あのありがたいというお話が出ましたけれども、仏教の言葉の中にも「ありがたし」というね、あることが難しいと漢字で書きますから、それ自体がその気持ちがあればあのいいのかなと思います。もちろん命をいただくことっていうのを知るっていうことだから、それは生き物でもあるし。ある意味、人の精神もそうだと思います。今は、おばあちゃんやおじいちゃんが亡くなるという瞬間を病院で迎える方がほとんどですね。そうすると昔を思い出すと、多分親世代、おばあちゃん世代も一緒に住んでたら、おじいちゃんが亡くなる瞬間、ひいおじいちゃんが亡くなる瞬間を孫やひ孫たちがやっぱり見てたんですよね。その瞬間まで一緒にいた場合が多いですよね。そうすると生きるってこととか命の大切さみたいなものってやっぱり、心の中に染み込んでるというかね、当たり前のようにあったんじゃないかな。なんかともすれば、今の日本の社会の中でお年寄りをこうなんかちっちゃい子のように扱うような呼び方をするとか、何かこう見てあげなくちゃみたいな風潮の人もいるけれども、それはおかしいと思うんですよね。でまあ、そこにリスペクトがあれば、そんなことって起こらない。でも知らないから、知らないって恐ろしいことだから、それは生き物すべて人間も含めての生き物の命を貴いものだなということ。それからもちろん、あのう、野菜や食物でもそれを作ってる人の顔が浮かんだら、あそこのおじいちゃんがくれた大豆やなと思ったら、やっぱり大豆って、豆って作るのめちゃくちゃ手間がかかるとかね。あの春の野菜のインゲンなんて、めちゃくちゃ手間がかかるんですよね。あれ一個ずつあのおばさんが摘んでくれてんなと思ったら絶対残しませんよね。でもあのわからんけれども、なんか出たのが苦いなと思ったら子供に残すんですよね。でも、これであのおばちゃんがもうくれたやつだね、この豆とかって言ったら一生懸命動きますよねっていうそういったところだと思うんですね。そこに人の体を浮かんだりとか、その思いが浮かんだら、きっと大事にするんで、そこをやっぱりあの伝えることって大事でやっぱり社会で変わっていくけれども、何か伝えることって私たち大人世代が次の世代に何かできることってあるんじゃないかな?っていうのをあの。お寺で一生懸命発信しておりますので、またよかったらまた当麻の方に来てくださいね。はい、今日はありがとうございました。ごめんなさい。もう一個だけすごく大事な音楽との繋がりが言おうと思って。今そのまあ練供養のことでも、溪子さんともちょっとプロジェクトをね考えているんですけど、何かというと、不思議なのですが、その当麻曼荼羅というのはいろんな場所にですね。空からこう降るようにいろんな楽器が描かれているんですね。あの。仏教もそうですけど、ほかの宗教もそうですけど、やっぱり音楽って切り離せない、アートと芸術と宗教とかも含めて、全部やっぱりいろんなものがマあって、私たちは生かされてるんだなと思います。その場は素敵な音楽をね。一緒にこうあと作っていってください、であの私たちはその、生まれる。まあ池に(生まれる)と言われてるんですけど、そこで初めに池からヒュって生まれた時に迎えてくれるのが妙なる音楽なんですね。で、そこであのギターみたいな、ピ琵琶の原型みたいな、琴とかね。極楽浄土に生まれるとですね、まず、その音を聞くんです。そういったのも含めて、やっぱりあのご縁だなあと思って、ありがたいご縁だなと思ってます。ありがとうございました。
 

井上明彦 

Nさん、せっかくだし...彼女はやっぱりそこの土壁を一緒に塗ったアーティストです。彫刻科の今非常勤をしてくれてます。

参加者13
はい、とてもこの素敵なプロジェクトありがとうございました。そうなんか色々と、いろんな情報がこううずまいて、思い浮かぶことがあったんですけど...最初に井上先生からその企画の企画書というか、そのものを見させていただいた時に、あの藤家さんのテキストも少しあの気にして、いただいていて、それを見てすごい行きたいなと思ったんですけど、なんかその今、朗読されたような内容を書かれてたんですけど、それ読んでまあなんかうん、その自分のことのように、あのまあ食べるっていうことが...今回はフューチャーされてるんですけど、なんかその本当に命をいただいて食べてるっていうこととかなんか、それを見ないようにできて、こう、いい人をぶって生きていられる、なんか今っていうか、あのそこまあ見ないで、まあ自分はなんか止めたいみたいな感じでいられちゃうっていう感じで生きてるなあみたいな。なんかそういうこと。まあ、食以外のこともすごく考えて、その実際に自分が触れてる競争も、その一歩奥にはまああえて触れないようにしてるみたいな。なんかそういうふうにこうスルスルと過ごせちゃってるなあっていうのをなんかすごい感じて。うん。なんかその奥みたいなところにこう。やっぱ触っていきたいって生きたいっていう気持ちで、もうなんか表現とかやってるのかなって思ったりしてるので、すごく興味を持って、でそのお話の中にもバビラが食べられちゃう時に、どうにもできなかったけど、そういうその感覚を忘れたくなくて、なんか植え付けるためにこう音楽を作ったみたいな話をされて、すごいこれが。思いみたいな、なんかこうするしかないっていうような感じですか?それはいいいなと思うので、はい聞かせていただきました。他にも気になることいっぱいあったんですけど、それがなんか一つ言いたかったんですけど。
 

井上明彦 

彼女も実はお寺の娘なんです。
 

参加者13 

そうなんです。私はもう。名もなき寺で。
 

井上明彦 

浅田さんなにか?筆談で言ってあげて。

浅田香苗(代読)
補聴器に入る音では聞こえ方に限界があり、ギターがわかるのかなと思っていた。聞いてみると、思った以上に多様な音が入ってきた。高さ、低さ大きさ小ささ...よくわからないけれどボコボコしたり滑らかだったりうん立体的な聞こえ方だったうん。インドネシアの音楽や美術の生活に目指している。特別な人だけのものではなかった。ジャワ島で鳥の首を切ってもまだ歩いているのを見た。犬もコウモリも蛇も食べてみた。うん、食べるということがリアルだった。うん、日本に帰ってきてから余生のようになってしまうぐらい、毎日刺激的で考える。今飼っている犬は野良犬でした。日本では引き取り手のない野良犬は殺処分買いになり、栄養として残らないんだなと考えました。
 

井上明彦 

せっかく浅田さんの幼馴染の方

参加者14
えっとAと申します。えっと、あの高校時代のあの友人でして同級生だったんですけど、でまあ、ちょっと一回は途切れてたんですけど、あの共通の友人の結婚式で再会してから、またちょっとちょっとやり取りさせてもらってみたいな話で。なんかちょっとラインでやりとりしてて、えっとアーティストなのであのまあ、私もアートはなんていうか。まあ、京都ももちろん、いろんな展覧会あります。しまあ、もっぱら見る方なんですけどであっちこっち行ったりしてて。でその報告をしたりとか、やっぱり色々してて、でつい最近たまたまあのこんな面白そうな展覧会があるっていうのをで、それがえっと和食の展覧会なんですよね。これはえっと今東京でやってて。でえっと来春かなにあの京都でこの巡回展があるらしいんですけど、その話をしたときに、あの今度このイベントあるんだけどっていうプライヤーを送ってくれて。で、それを見た時に何かブラムスギター初めて聞いたって。まあ、音楽も好きなんでなにこれっていうのが混ざって、であの食に対する興味も。以前からだったのでで、ああ、面白そうって言って行かしてもらいますみたいな話で、今日寄せていただいたんですけど。まああのいろんなね、皆さんすごいお話もすごくあの人生のなんか垣間見せていただくような内容で、お話も皆さんすごく上手くて感心して、そうなんですけど、感動してたんですけど、まあ個人的にはそうですね。あの映画のびっくりトルファームっていう2020年の制作作品があるんですけど、これがまあなんだろう?そういう循環、生物の循環で、これもちょっと改めてえっと、ちょっとタイトル忘れたんでアマゾンで調べてたんですけど、そうするとこの映画も、実はなんか殺処分寸前で保護した愛犬がロサンゼルスのアパートに連れて帰ったんだけど、こう鳴き声がすごくて。で、それで追い出されたことをきっかけに、あのちょっとそういう郊外に移り住んでで。そこで200エーカーの土地を買って、で、そこでなんか師匠みたいな人に出会って、そのそこのあの土地の、あのこうなんていうか農業ですね。初めてで、そうするとやっぱりあのまあ当然鶏とかそういうことを飼いだしたりとかも徐々にしていくんですけど、で、そうすると、途中はやっぱりまあまあ、今の日本人の感覚からしたら、なんかこうまあ残酷なシーン。当然、鶏とか飼いだしたら周辺になんか寄ってくるじゃないですか。それでこう殺されたりとか。っていうのもまさにすごくあの今日のお話なんかリンクするなあとちょっと思い出してた作品があったりするんですけど。あとは私もなんかまあ多分今日の年代聞いたら、まあ20代の方もいて、70代の方もいて、まあだいたいまあ中間ぐらい世代なんですけど、私もあの母方の祖父があの割と個人でそういうの大きめの家庭菜園やってたことがあって、で子供の頃はあの祖母の家に帰った時はすごくそこに行くのが毎回楽しんでで、それこそ本当に奈良なんですけど、サトウキビとかキウイとかなんかそんなものまで植わってたりとかしてで、なんかその野菜をまあもらって帰ったりするんですけど、そうするとやっぱり母から、あのこれはおばあちゃんが作ってくれた野菜やから全部食べなさいねとか。あとなんか一粒のコメには7人の神様がみたいな話は一応知っている世代です。あとはまあそうだな。まあ、自分自身も割と野生児だったので、川を見つけたら、なんか魚いいひんかな、見えないかなっていってるような子やったんですけど、まあ、あのそういう感じで結構本当に人をすごく世代を通して。こうなんか分かり合えるとか、点と点がつながっていくみたいなやっぱすごくあの有意義な。それプラスはやっぱアカデミックなことと、その実学とかそっちの方のなんか点と点がつながっていったりとか、で最後なんかあの当麻寺の話が出たので、私、ちょっと感動してたんですけど、実は私、結構まあ。奈良出身なんで当麻寺とか行かしてもらうんですよ。であの今ちょうどあの折口信夫、彼の「死者の書」のアニメーション映画、あれがすごく...かれこれもう15年以上前に見せさせてもらったんですけど、あの川本武八郎さんのアニメーション、あの作家人形みたいな作家さん、のアニメーションで映画作品だったんですけど、これも素晴らしかったんで、まあ、あのもしよければなんか皆さんご覧になってください。そのようないろいろがつながるなんか、とても有意義な会だったかな?

【中略】

藤家溪子
ああ、すみません。もう一時間以上超過してしまって、ちょっとまとめに入っていただきます。
 

佐藤知久 

あのJosephさん、なんかすみません。 I'm sorry that that you don't understand the contents of the conversation. If you want to say...

Joseph Ehrenpreis
Firstly, I'm very sorry that my Japanese ability to speak is too low to contribute to this conversation in a meaningful manner. However, I have thought a lot about this, like as as this piece was coming to exist, Keiko and I exchanged emails and I shared my history of limitation and diet. But also I I've had deeper more profound thoughts as I'm listening and taking little bits that I can understand in this. To me, at the root of this is an ethical human problem where we ascribe intelligence and sentience to many beings, but in truth, all beings are probably sentient in some form. So then we need to decide at what level can sentience still provide us sustenance for to kill an animal and consume it? And if we do, do we consume the whole animal or portions of the animals we do when we buy from the grocery store. So I think at the root of this, what I can decipher is that as humans, we should be as empathetic as we can to our surroundings and reduce suffering and pain if possible. And I think there is this moral dilemma like culture versus sustenance versus modern empathy. And to balance all those things is an impossible equation. So it needs to be a personal decision of how to approach these things. And to be empathetic is also not to be judgmental of people in Burkina Faso also, for example, who need to consume animals to sustain themselves. So I think if we want to be understanding of one another, we cannot be judgmental. Instead, we have to be loving and express kindness to one another. And that's what this whole conversation is. I mean, everyone has their own opinion and we take what we can from it and form our new opinion or decide we're sticking to our guns and going forward the way we think. So that's my Impression.

藤家溪子
かいつまんで、あのかいつまんでというか、皆さん多分お分かりになったと思うんで、えっとちょっと端折られたところ言いますけど、ええとお母さんのサイドはキューバの出身で、おじいちゃんっていうのは、あの、路上でネクタイを売ってはって、まあ、非常に貧しかったと...あのジョゼフさんのお母さんのお父さんですね。ジョセフさんのお母さんがまだ八歳か、九歳の頃にある日帰ってみたら、ペットっていうか、まあ可愛がって名前もつけてた山羊が屠られてお料理にされていたと。でもそれはもう本当に食べ物がなくなってしまったので、別にサラブレーションとかお祭りじゃなかったけれども、しょうがない、これを今日は食べようっていう。まあその頃はおばあちゃんが台所に立ってはって采配してはったらしいですけど。で、その彼のお母さんすごいショックで、その日から肉食をやめたそうなんですけど、それは私たちが考えるのと全然違ってて、まだ九歳かなんかだったのに、その日からは台所のすべての責任は彼女が背負った。そうでないと肉食しないっていうのは、私はこれ食べへんしっていうわけにはいかない。だから自分が食材をね、調達っていうのは、その調達が子供ができるのか知りませんけど、とにかく自分が台所の実権をおばあちゃんに代わって握るということで、それをまあ成し遂げたというか、それがなんかすごくびっくりしたんですけど。まあ、彼女が言ったこととすごく共通してると思うんですけど、こう、見たくないものは見ないことにして、自分はいい人やっていうところに逃げ込むんじゃなくて、かといってあのものは考えよう一人一人考えがあるねっていうあの大雑把なことじゃなくて、できる限りのエンパシィ...えっと共感、あのお互いいろんな背景いろんな理由があって、それをしている。だからブルギナファソンの人って野蛮ねみたいなじゃなくて、やっぱりできる限りそこを理解して共感していく。お互いにジャッジメントじゃなくてっていうで。まあそのバランス、それは非常に難しいっていうか。ある意味、インポッシブルなことでもあるんだけど、まあ、そういう感覚を持っていこうっていうふうに要約していいんでしょうか?先生が補足して終わってください。

佐藤知久
えっとまあ生まれ育った文化と、うん、そのえっと、こういうことはしちゃいけないみたいな、こうすごいこう、現代的なこう道徳観みたいなのと、あとなんかそのえっと動物とセンスっていうなんかその動物が感覚する...ああ、そうそう、動物の中でも僕らが明らかにこれはなんか、ただ、知性があるとか苦しみを感じてるとか、アリさんとかなんか苦しみ感じてるかどうかわかんない。でも、明らかにこう苦しみを感じてるみたいなその動物の様子とかを見ることができるので、まあ、そういうのは、例えばこう食べないみたいな反応するみたいな。そのこうまあ、文化に従う自分なりに判断するこう考えて、どこからどこまでみたいなこのバランスをあるけど。そのバランスから一つの解をこう切り出すものがほとんど不可能で、その例えば動物が苦しむって言っても、どっからじゃあどっから苦しんじゃないのかある意味、わかってないだけかもしれないし、みたいなこともあり。だから。まあ一人一人の判断で、その自分が何を食べて何を食べないか決めるっていうことにしかならないが、まあ、そのことでその他の人を責めるっていうのも、そのなんか動物を食べないっていうこと。のなんかの中にあるこう共感性みたいなものに関して、他の人に対して攻撃的になることも、まあちょっと嫌だっていうことです。

藤家溪子
結局、自分に近いものは苦しみもなんか想像しやすいけど、例えば植物が全く苦しんでないのかとか無感覚なのか、それはわからないだけかもしれないし、わかる人もいるかもしれないです。

佐藤知久
よく考えるとこれ明日もある。
 

藤家溪子 

まだ喋ってない方もいたんですけど
 

佐藤知久 

なんかありますか?付け加えたいこととなんか僕がいいって聞きたい。
 

藤家溪子 

子育て真っ最中のお母さん。

参加者15
はい、食に関して、やっぱりあの子供が、娘なんかはこれから子供を産む体になるので、すごく気をつけて、私が気をつけなければいけないなって思って、いろいろ本買ったりユーチューブ見たりとかしてますけど、あのやっぱりバランスよく食べるのがいい、あまりこだわってこういう風にならないように、バランスよく食べるのがいいんだろうなっていうことに最近気がついています。でも、工場で作るとか、そういう加工されたものにはいろいろ難しいものが入っているっていうことも、勉強したらわかってきたので、できるだけ私はあのまああの専業主婦なので自分で買い物に行って材料を買って、自分で作るように頑張ってます。であの息子は今日はすごく楽しみにしてて、八弦ギターなんだよって言って、その下の箱があるんで共鳴するんだって言って、もうこれは絶対。俺は聞きに行くんだっていう楽しみにしていました。で、さっきあの外でどうだった?って聞いたらすごくきれいだったって、あのちょっと息子の代弁ですけれどさせていただきます。とても楽しい会でした。ありがとうございました。




6月2日トークセッション 文字起こし

佐藤知久 

フレンドリーな場なので何か言いたいことがあったら自由に言って構わないというような感じで進行していきたいと思います。 

私はこの後司会進行をさせていただく佐藤友久と申します。普段は京都市立芸大の芸術資源センターというところで働いております。 

藤家溪子さんがどういう人なのか、皆さんにググっていただくことにしまして、まず私がいくつか質問しますので、その後、皆さんご自身の質問をしてください。藤家さんは元々京都の出身で、東京芸大で作曲を勉強されてその後、外国に、アメリカとかにいろいろ行かれて、2019年からブルキナファソに暮らしておられます。音楽を作る環境というか、音楽をするといってもいいんですけど、そしてブルキナファソってそれまでにい行かれてきた場所からするとだいぶ違うところがブルキナファソは皆さんご存知かどうかわからないんだけども、サハラ砂漠の南側の下というか、比較的乾燥した、その中に川とか...結構あまり農業に適してる、めちゃくちゃ適してるわけでもないけど農業でやっているという...非常に歴史が深い、深いというか長いというか、国としても知られているんですけど、ブルキナファソで音楽をする環境、作曲するっていう環境というか、音楽的環境としてのブルキナファソってどんなところですか?


藤家溪子
ブルキナファソという名前をご存知の方はまだそんなに日本では多くないんですが、前はオートボルタというフランス語で呼ばれておりまして、フランスの植民地だったところですけれども、それで私の大学生だった時代に川田純造先生という文化人類学の方が本を出されたんです。武満徹さんっていう有名な作曲家との往復書簡という形でしたが、川田先生はその中で、このオートボルタに滞在してたときの体験をいろいろ書かれてたんです。
川田さんがオートボルトに滞在したのは1960年ということで、さすがの私もまだ生まれてないころなんですけども、フィールド調査っていうことで6ヶ月だったか行かれたと思うんです。目的のメインはトーキングドラム、話太鼓とかって言うんですけれども、ブルキナファソ、現在のブルキナファソにある王朝の一つ、モシ族の王朝が、ベンドレっていうひょうたんにヤギが張ってある非常に単純な太鼓で、王朝の始祖から今に至るまでの歴史を、毎週金曜日に太鼓でみんなに披露する。
王朝の歴史だけじゃなくて(太鼓は)もっといろんなところで使われるは使われるんですけど、川田先生は王朝のそのときの王様ともお友達になられて、現地調査された。いろんな話が長いから省きますけど、先生は当時、カセットテープの時代ですから、カセットレコーダーとテープを持って王宮に金曜日に行ってセッティングした。でもカセットテープはブルキナファソでは買えないから、非常に大切にされてたんですね。6ヶ月だし、貴重だし、太鼓が何となく始まったけどちょっと待とうと。メインのところが来てから、スイッチ入れようと思って待ってたら、35分から40分経ったら、みんなミュージシャンたちが太鼓を片付けて帰りだしたと...えっ!て先生もびっくりされて、今ので全部だった。つまり先生は何となく人間の声も入るというふうに、やっぱり想像されてたんですけど、シンプリーに太鼓だけだったっていう、そういうことをその往復書簡の中でも書いてらっしゃって、どれほど違うか、どれほど西アフリカではクラシック音楽という西洋のクラシックが全く人気がなくて、先生はモーツァルトの大ファンで、モーツァルトの曲を入れて、時々カセットで聞いてたりしたけど、何がいいのそれ?みたいな感じで非常に向こうで受けが悪かって、悔しい思いをしたとか、いろんなこと書いてありました。私だけじゃなくてその本はとっても音楽大学生の間ではベストセラーでしたけれども、そういう音楽文化の、もう全然違うところがあるんだっていうのが心にすごく残って、いつか行ってみたいって思ったんですけど、そんな機会もなく、そのまま何十年も過ぎたんですが、2018年にブルキナファソ出身のフランシスK・ケレっていう、この方は国際的に有名な賞を取ったような方ですけども、この人に偶然お会いする機会があって、自分はオペラハウスを建てようとしてるんだよっていう話だったんです、その当時。結局その話は頓挫してるんですけども、そんなんでもうケレさんの建てるオペラハウス、そこで上演する曲目が必要でそれを新しく作りたい、アフリカのDNAがばっちり入ってるオペラを作りたいという話だったんで、それやりたい!みたいな、ちょっと手を挙げまして、それも歌だけじゃなくて太鼓でも語るオペラとかができたらかっこいいなって思ったのがきっかけです。

佐藤知久
そのオペラを作るっていうことで行かれた?

藤家溪子
そうですね。彼がオペラ村っていうところの真ん中にオペラハウスを建てるという仕事をすることになっていたので、そこにも誘われたっていう形ですね。恥ずかしい話なんですが、私はそのときにそのブルキナファソが、私があのとき読んだ川田先生のオートボルタと同一だっていうことはすぐにはわからなかったです。でもやっぱり人生の偶然っていうか、ケレさんの出身の村は、川田先生があの当時滞在したところにほど近いところだった。

佐藤知久
普段の生活されてる場所での、音の感じというか、暮らしぶりと、作曲家として生活してる、ちょっとお家の写真というか映像もありますけど、そういう生活の中のなんか音楽的要素というか、多分、プロのミュージシャンもちろん専門的な太鼓を叩く。専門職者的な方はいらっしゃることは川田さんの本にも書いてあったけれど、日常的なその音とか音楽っていうのはどんなふうに楽しまれている?作られている?

藤家溪子
私が一緒に住んでる人たちも、その集落もGriotって呼ばれている代々世襲で音楽を受け継ぐ家系の人々なんです。その人たちはもう楽器も自分で作るし、レパートリーは全部口承伝承、ちょっと日本の家元とか。はい。楽家に似てるんですけど、日本ではちゃんとやっぱり書かれたものもあるんですけど、西アフリカの場合は書かれたものは皆無ということで、お父さんから息子へ、おじいちゃんからお父さんも、そう上からですね、ずっと口承で音楽は伝わってきているのでGriotの専売特許っていう...このGriotと呼ばれる人たちは音楽の他にストーリーテリングもやるし、その太鼓言葉で王朝の歴史やってるのもGriotですね。ブルキナファソには60種類以上の部族がおられまして、それぞれのGriotっていうのがあって、それぞれ違う言語で違うリズム、違う音楽。非常にバラエティーに富んでいるんですけれども、ですから逆にGriotの家系に生まれなかった人が楽器を習ったりはすごく難しいんです。他の地域でもあることなんですけど、もうこのGriotというのは王様っていいますか、なんていうか部族の族長にお仕えしていろんな場面で音楽を、ウェディング、葬式、子供の洗礼式ですとかいろいろですけど、あるいは王様が何か重要な話があるときにとかって...そういうところでサーブするのが仕事なので、元々農耕をしなかったんです。だから王様から養われていた。農耕しない、そういうちょっと農耕もしない牧畜もしないそういう身分の人っていうのは、社会的な身分制度としては最下層、なんかカースト外みたいな扱いなんです。でも王様の引き立てですごくいい地位についてるとやっぱり王宮にも自由に、王宮ってそんな大きくはないんですけど、よく自由に出入りしたし、そういう意味ではそある意味尊敬されてるけど、はっきり言って、この社会の最下層みたい

佐藤知久
なあたりは何か京芸が崇仁に移転したときに、せんずい(山水)河原物っていう日本の古くからの伝統芸能の歴史と現在のアーティストが繋がってるんじゃないかという話もあったんです。でもやっぱり芸術を実践する方ってものすごく尊敬されている反面、何か世の中の役にたつのが立たないのかみたいな。

藤家溪子
そうですよね。

佐藤知久
お父さんに、俺絵書きになりたいとか、そういうこといったら、何言ってんだみたいに言われるみたいな、なんかそういう両面性というのがあります。多分、ブルキナファソでも

藤家溪子
全く何か日本の歴史の話をまたここでも見たみたいな気がしたぐらいで、歌舞伎者とかね、歌舞伎だってやっぱり河原から始まって、今でこそ人間国宝とかなんかいろいろありますけど、そうなんだけどちょっとアンビバレンツだったり...逆にだから普通のうちに生まれた方、Griotじゃない方は、音楽を本当に聞く機会があんまりなくて、でも近代化してからは族長たちがイスラム教になっちゃったり、クリスチャンになっちゃったりとかっていうことが非常に頻繁に起こって、そうすると昔ながらの儀式をやらなくなってくるわけですね。ちょっとGriotは失業状態というか、いきなりじゃないけど徐々に活動の場を失っていって、今は庶民の結婚式とか、お祝い事なんか、葬式・一周忌とかそういうのに呼ばれていくのがメインになってくる。だからそういう意味ではその文化がちょっと廃れてきてまして、逆にGriot以外の方は、エレキギター、キーボードですとかそういう外来の楽器をやられるんですね。だから、トラディショナル・ミュージックとそういうモダンミュージックがちょっと競り合うような感じで、今はその混合のトラディモダンっていうジャンルが割と政府が推奨して推してる感じなんですけど、そんな現代ならではの混沌とした状態。

佐藤知久
そういうある意味、伝統的な音楽の状況が変質している中で、藤家さん自身は、楽譜を書く形で作曲をこれまでずっとしていらしたけど、その音楽を作るやり方っていうのは何か変わってきたということはあるんですか?

藤家溪子
そうなんです。結局楽譜を一生、一生というか今まで書いてきたのに、楽譜がない社会に行ってしまったので、もし私が何か作曲して、5人でやろうねみたいなときは1人1人に、最初っから最後まで何らかの形で口で伝え歌うとか、下手でもバラフォンを弾きながら伝えないといけない。Aさん終わったら次、Bさん、Bさん終わったらCさん…でもう、その膨大な時間がかかるんです。

佐藤知久
藤家さんの中にある音のイメージというか、それを口とか楽器とかを通じてその場でやって、やるっていうことで教えていくみたいな...

藤家溪子
そうですね。はい。

佐藤知久
その手前で、その最初のイメージを作るみたいなところ、あり方とか、そこはあんまり変わらない?

藤家溪子
もちろんそれもやっぱり変わりますね。生活環境が全て違うので、言葉もフランス語じゃなくて現地語のモレ語っていうのを喋るようにしてるんですね。1から10まで本当に何もかもが違うんで、昔自分が作曲した曲とかっていうのは非常に遠いものに感じられてしまって、もちろん私が自分の曲をやってもらうだけじゃなくて、まずはあちらの音楽を学ぶ時間が2時間ぐらいあったんですけど、その教え方も、そうですよね、なんかリズムとか教えてくれるんですけど、まず何ていうんですか、すいませんちょっと音楽専門的な言い方だと小節線とかあるじゃないですか。リズムの区切り、この観念がないみたいなんですよ、どこから始まってどこで終わるのか、その感覚が全然違うし、例えばあの四分休符の半分が八分休符とかね、休符ってありますよね。休符にも音価があって、どんだけ長いかは決まってるはずなのに向こうはそこで止まるっていうだけなんですね。やっぱりどんだけ止まるのかが自分にはわかんない。とにかく全部体で覚える式、なんか大変なときは...

佐藤知久
基本的にはその合奏というか、何人かのミュージシャンがいるっていう感じですか?

藤家溪子
そうですね。はい。太鼓も、太鼓のアンサンブル最初に習ったんですけど、5人いたら5人とも違うリズムを打つ。ポリリズムってやつですね、いわゆる。でもなんか数えるっていうことはしないんです。1234では数えてなくて、何か自分から聞いたら絶対三拍子なのにと思ってるけど、あえて言えば4だとか言い張ってて、そのね、数え方の観念が違うので孤軍奮闘みたいな...

佐藤知久
でも、そうするとこう、からだがなんか再編されていくような感じとか?

藤家溪子
そうですね、やっぱり今まで最初に言いましたけど、自分も還暦...行った頃はまだ違ったんですけど、もうそろそろ還暦なので、人生は一度終わっていて、新しい人生 って言われてるし ...

佐藤知久

私、今更っていう感じに?

藤家溪子
そうそう、なんか六十の手習いっていう言葉は本来は自分がやってきたことを全て1回脇に置いて、新しい心で初めてという、それが本来の意味だというふうにどこかで習いましたんで、今までずっと作曲やってきたつもりだけど、もしかしたら音楽っていうもののほんの一部しか見てない、あるいは何かこっち側からしか見ていなくて向こう側の全部を私は見てないのかもしれない。とりあえず全部置いて、だから最初はキーボードは弾きたくなかったんですね、元々ピアノ弾いてるから。それであのネイっていう楽器があるんですね。葦笛みたいなね、世界でも一番古い楽器の一つ。トルコとかアラビアで吹いている。それがちょっとだけ吹けたので、それ1本だけ持って行ったんです。でもいろいろ事情がありまして、キーボードを結局取り寄せたのですが。

佐藤知久
写真写ってますね。今回 Josephさんからの委嘱で、今日こっちのメインのイベントで最初に演奏された、朗読と演奏という形で作曲されたピースていうのは、あれは何かちょっといや、語りの中にも、すごいキーワードが、鮮烈な体験をされて、その記憶を曲に焼き付ける...バビラへの憧れとか憧憬の念の全てを込めて、いわゆる音を構成するっていうだけではないような、情、情動というか、感情みたいなものがすごく作曲するっていうことのエネルギーになっていると感じたんですけど

藤家溪子
そうですね...あのですね、究極自分が見失ったかもしれない音楽の別の面を探しに行ったというふうに言いましたけれども、結局行ってみると、ある意味、その日本と重なるところが意外に多くて、例えばその一つが五音音階ですか、ドレミファソラシドではなくてミソラドレとかっていうペンタトニックって呼ばれてるもので、ほとんど全ての音楽ができている。それは日本の民謡とかとすごく共通性があったので、びっくりしたんですけど。ある時、ぼんやりとラジオを聞いてましたら、「ラレミファラレーミ」って聞こえてきたんですね。それはあるメインの一つのラジオ局の、なんかちょっといつもそれ使ってるテーマソングとは言わないですけど...短いんですが

佐藤知久
ジングル?

藤家溪子
そう、そうなんです!なんか、12時ちょうどとか、そんなときに流れる。それで最初それが「これなんか知ってるな」と思ったけどわからなかったけど、それが五木の子守唄の最初のところだって気がついたんです。それでちょっと頼まれて何か歌ってとか、日本の歌は知らないの?とか言われたときに、五木の子守唄を歌うのを始めたんです。
そしたら皆さんもご存知と思いますけど、もうまだ幼いのに働きに出てね、(家から)離れた村の何かお金持ちのところで子守をしているという10歳ぐらいの女の子の想定なのかね、うちに帰りたいけど1年に一遍しか帰れない、お盆が来たら帰るのに、みたいな。
それでね、この状況 が日本 でいつ 頃まであったのかなって、まあ、いろんな人に聞いたりすると。結構戦後も本当に田舎に行ったらそういうのはあったんじゃないかなみたいな。だからちょっと詳しくなくて、ちゃんと話せないんですけど、でもブルキナではもう本当に今、今それはあるんですね。私のバンドのメンバーってのは大体30代後半なんですけど、ある日、十歳ぐらいの時、お父さんに呼ばれて「うちは兄弟が多くて、お前に食べさせるものないから、悪いけど、綿花の畑に働きに行って」(と言われた) 。綿と胡麻が主な産物なんですけど、それで「分かった」って言って、ちっちゃいのに従弟と2人で一年間そこで働いてきて、帰ってみたら、あの同じ言語なんだけど、地方によってすごく変わってしまうから、家族がしゃべってるって言葉がわかんなかったと言ってるんですよ。そんなことよく話してくれて、日本もね、ちょっとわかんないけど、何十年か前まではそういうことがあって、その歌なのよって私が解説したりしたんですけど、仮に解説がなくても、私がそれを歌うと泣く人がいるんですよ。言葉とかで説明する・しないにかかわらず。だから言葉と音楽っていうのはすごく結びついている反面、言葉を離れても音楽には何かしらの感情とか記憶とか、そういうものが宿るのかなっていうような。まあ、ちょっと漠然とした疑問なんですけどね。いわゆるこういうギターとか、ハープシコードとか、ああいうのはちょっと非常にアフリカ的じゃない楽器、音もちっちゃいし、なんか繊細だし、すごく対極的で、だからブルキナファッソに身を置きながらギターの曲を作曲するっていうのは自分の一つのチャレンジみたいなことだったんですね。でもまあ、その仔犬を食べたっていうことが、自分の心になんか引っかかって、ええ、それはでも何も答えがないような、感情の渦巻きみたいなものだったんで、ええ、これをなんか音楽の形に焼き付けたいなという試み。


佐藤知久
昨日もそのちょっと話したんですけど、まあ犬を食べるっていうか、まあ何かを食べるっていう、動物でも植物でも、これを食べるっていう時に、まあ私はこれ絶対食べませんみたいな思ってるものって、まあありますよね。それはそのえっと、まあ、単純に言うと嫌いだからっていうのもあるんですけど、でもこれは食べるものではないっていう、これは人間が食べるものじゃないっていうふうに思ってるものを食べるっていう。そういうズレみたいなのって、効果的にあるじゃないですか?で昨日すごいJosephさんが綺麗に整理してくれたんですけど、まず文化的にこうこれを食べる食べないっていうのがあって。まあ人はそれぞれその自分が生まれ育った場所で、何を食べるかということを身につけながら生きる、一方にそのすごい個人的な好みとか、あと成長した後に自分の道徳的な考え方に基づいてこれは食べる、これは食べない-例えばこうベジタリアンがあるんですけども。でそれってどっちもものすごく排他的な議論にしかならなくて、私はこれを食べる、あなたは食べない、あなたはおかしいみたいな議論にすごくなりかねないので、その特に近い場所で食べる・食べないみたいなことがすごくこう、民族の境界線を引くみたいなことがあると思うんですよね。で、要するにその真ん中にこうじゃあ何を食べるっていいのかいけないのかみたいな議論している領域っていっていうのがあってそれは、例えばこうこれはええ、この動物はすごい賢いからとか、この動物は人間に近いからとか、可愛いからみたいな。まあ、いろんな基準で線引きをするエリアというか。でも、それも結局ある基準を作った時に、そこからこっちの動物を食べないっていう基準みたいなものを、例えばよく議論されてる人間にも適用されちゃう。例えば知能が高いものは食べちゃいけない、知能が低い人間食べていいんですか?殺していいんですか?とかなんか。まあ、そういう議論になってしまって、すごくこうやっぱ収拾がついてない領域だと思うんですよね、議論としても。はいで、そのそのどうにもならない気持ちを音楽にするっていうのがすごく僕はあの印象的なまあ。

藤家溪子
逃げみたい。な感じですね。

佐藤知久
で、そのかつその音楽の中にある種悩みとか、どうにもならない感じみたいな感じ取れる気がしたし、そのこういうどうにもならない議論とか、すごくこう直接的な差別とか対立に結びついてるような問題を、なんか音楽を通じて考えられるような時間を作ってられるなっていうふうにちょっと思ったんです。
 

藤家溪子 

そうですね。あのまさにこの場がまあ、ちょっと私が喋りすぎてますけど、皆さんの声も聞きたいし、そういうきっかけになったらいいなっていうのはあります。
まあ、このブルキナの状況のポイントは、犬を食べるために家畜として牧場みたいな形で育ててはいない。産業化はしていない。だけどまあ、コミュニティの中で、まあそういうことしちゃった犬を食べるということで、まあ一つのバランスが取れてるのかなっていう現象はあると思います。でだから家畜たちもだから犬とええと今おっしゃった。そのいわゆる家畜と呼ばれている羊とか山羊、ここの間にそんなに境界線はないですね。だから家畜の方も、あの、なんですか、物を運んだり、驢馬とか、そういういろんな仕事をしてて、まあ、でもコロアイが来たらやっぱりそれも食べられちゃうみたいな。まあ無駄はないと思いますけど。

佐藤知久
なんかやっぱりアメリカのまあ、いろんな民族の動物を見ているとでも、まあ食べちゃうにしてもすごくこう、愛着を持って人が 牛などに対しても接するっていう、東アフリカとかでも、 あのなんかそういう意味で、こう日本にいるというとあれですけど、そのまあいわゆる近代的な生活環境、そのモダンなところに来る中で、こう全部見えなくなってきているものが全部見える。そういう感じがします。

藤家溪子
そうですね。逆にあの、例えば動物の幸せとか言ったら、また全然別のトピックになっちゃいますけど、普段繋ががれないで自由にしてるし、まあ、例えば交尾とかもしょっちゅうしてる。それは私たちもみんな見えるところでやってるし、そういう意味ではある意味自然ですよね。いわゆる先進国の買い方に比べれば。

佐藤知久
うんで、そういう意味では、なんかその僕らがまあ見えなくさせられているものをあの、見ながら作った音楽をあの持ってきて、なんかやってくださるっていうのはすごい貴重だなっていう僕、さっきちょっと思ってて、あの万博に行って今度そのオペラされるんですよね。はいはいでその話も。

藤家溪子
まあ、結局あの楽器も植物か動物の体を使って作ってますよね。まあ、今でこそ別のね、ナイロンとか違う素材を使ったりしますけど。だから楽器を作るには、あの私はその太鼓を自分の太鼓を一緒に作りましたけど、まず朝殺されたヤギの皮をもらってきて、きれいに洗ってその毛を剃るっていうのから始めたりする。で、だからその生態系っていう言葉は何も食べ物だけじゃなくて、もう音楽、文化、すべて人間の営みをみんな含んでいるんだと思うんですけど、だから楽器っていうのも、あのもしかしたら犠牲になった命の声だというふうに取れるし、また世界的な環境汚染のために、あのジョゼフも言ってましたけど、もうピアノにしてもギターしていい木が、昔ほどいい木がない。そんなんでやっぱり200年前の楽器とかを一生懸命買いあさったりっていう、そんな動きもあるぐらいで、今のすみません、質問の答えになってないみたいなんですけど、あのそういうことすべてに意識が向いて、音楽っていうのを全体像として、なるべく見られるような機会、そういう演奏会のあり方、またそういう作品っていうのをちょっと考えてみたいと思っています。

佐藤知久
あの今のお話を受けて、そのちょっと思い出したんですけど、その、ええとまあ、昨日のトークの中で結構若い世代学生さん、卒業したぐらいの方が、やっぱり自分たちにとっての自然っていうのがあまりにこうなんか人工物を介した自然みたいなものであっていて、その直接その本当に自然に触れたっていうような感覚を持ったことがないって。

藤家溪子
憧れてるけど持てないって。
 

佐藤知久 

って気がしたんですけど、そのなんか音楽って自然現象じゃないですか。言ってみたらその音が鳴るっていうのは、何かを弾いたり叩いたりとかすることで、自然現象としてなんか成立してるような気がして、であのそれの成り立ちみたいなものなのは、なんかある意味こう自然に触れてるようなところもあるんじゃないかなってちょっと思ったんですよね。だその音が鳴る環境っていうのを、あのまあ、今回こういうこうすごく。あの一般的な日本の音楽コンサートとかで言ったら若干得しているといってもいいようなことでやっていることも、なんかそのもう一回そのとの環境みたいなものとらえ直して...音楽っていうものがなんか自然とね、繋がって、まあ面白く...なんかこうえっと数学的でもある。犬もなんかこう自然との近さみたいな感じなんですけど、なんかそういう意味でもう一回、あの都市の中に暮らしているけれども、実はそこかしこある自然みたいなこととして、ほとんど考えられるんじゃないかみたいなこともちょっと考えました。

藤家溪子
そうですね。そのここでもあの電車の音とかも聞こえるじゃないですか。で普通だったら、っていうか、まあ最近までの考え方だったら、完全な防音のところで純粋にギターの音を聞くのがベストみたいにあまり疑わないで思ってたところがあるんですけど、もう環境すべてが、まあ、一体となって、それはJohn (Cage)まあまあ前からそれをトライしてる方もたくさんいらっしゃるはいらっしゃるんです。えっとまたその今の音楽っていうのはもうずっとヘッドフォンをして、ええ、むしろ外界と遮断するためのツールにもなっていますよね。だからまあ、音楽のあり方さまざまなんで。すけど、その立ち位置とか。何に向かってどういう場所で演奏されることを望むのかみたいなことが。まあ、あのたくさん作曲家の先生方いらっしゃってますけど、まあ、それぞれお考え...

佐藤知久
こんなこと言って、まあそれ多いんですけど

藤家溪子 

私もうかがってみたいと思います。

 

佐藤知久 

僕、大体聞きたいことはだいぶ聞いたので、これぐらいこうなんかいろいろ聞いた後になんか皆さん、皆さんから何かもう言いたいことが聞きたいこと、ご自由に。

参加者1
万博で成さろうとしている音楽ということが、あのちょっとイメージが全然湧かないので、あのもうちょっとオペラっていうその言葉自体がなんかちょっとあのそぐわないような...

藤家溪子
そうですね、はい。あのまあ最初にお話したみたいにオペラハウスを作る予定があったので、まあそこに行ったんですけど、その話はまあ頓挫している。であの行ってみますと、あのその計画が自分の国であるということも、ほとんど誰も知らなくて、オペラは何っていうのも誰も見たこともないし、何も知らない。ですから私はやっぱりあの西洋でやってるオペラとかね。あの蝶々夫人とかそういうのを絶対見せたり、その話をしたり、自分からは絶対しないようにして...いや、結局そのドラマと音楽が結婚したようなものなのよって、何かその伝えたいこととかトピック、まあ、歴史的にも西洋でもあの恋愛ものもありますけど、そこに深く政治の話が絡んでいたりとか、まあ、その映画とか、もちろんテレビなんかない時代に、まあ贅沢な王宮の人が今楽しむために最初の頃作られていたから、宗教あり、政治ありなんでもあり、コメディも悲劇もなんでもありで、でもそれが音楽とともにあの歌声に乗せて表現されるのはオペラです。で、これだけの情報だったんです、私が彼らに伝えたのは。そしたら彼らはまあ都会に住んでる人は、頑張ってスマホとかも買ったりはしてるんですけど、そういうのを聞いて、じゃあ「オペラ」とかググったりは絶対しないんですね。そうか、みたいな感じ。それだったらうちらの国にもあったよ、そういうのあるよみたいな感じで。そう?じゃあ、それでやろうよって言って、半分ずつ曲は書こうね、私ともう一人のブルキナ人、半分ずつ曲は書こうねって。でもみんなとにかく演出でもなんでも、みんなで意見言っていいから、で、彼らはもともとその楽譜がないですから、あの決まった通りにやらないんですよね。なんかあの、メロディとかリズムのパターンは習ってくるけど、そこに常に即興で載せていく。なんか決まりきったことを繰り返してやるということは、まあ彼らの辞書にはないと言いますか...まあ、最近のバンドとかはやってますけど、もともとグリオ(Griot)はそれがない。であのもう一つ、あのグルギナファソは、今軍事政権なんですけど、長い間フランスの支配を受けてきて、そこから独立したい、本当の独立をしたいっていうのは、いろんな思いがあるんですが、西側のニュースでは全然違うふうに報道されている。つまり、フランスが助けようとしているのに、軍事政権が民衆感情を邪魔して、それに盾突いてるみたいな。しかもフランスが嫌だからといって、本当に、よりによってロシアとか中国にすり寄っているみたいなふうにまあ伝えられてますよね。でもちろん私はその真ん中に立ちたいけど、あ、それもない?ブルキナのニュースほとんどないですか?あ、そうですか。じゃあこれはあの、例えばヨーロッパで流れてるかもしれないですけど、でもまあ庶民っていうのは、全然違う考えを持っているんですね、その自分たちの状況について。で、あの私が彼らの話を聞いたとき、それは真実なのかどうかは確かめる術はないんですけど、じゃあ、あなたたちが思っているアフリカ、自分たちの歴史、今の状況っていうのを、自分の言葉で自分で歌って伝えようよっていうことになったんです。

佐藤知久
このオペラのまあ、物語の部分。

藤家溪子
そうなんですね。なぜならば、日本でもそうだけど、ヨーロッパの人たちもみんな、白人とか、まあ、外部の人がフリカに行って取材して、こんなことです、こんなことです...ロイター通信かもしれないし、物語かもしれない、映画だったりするけど、それはみんな外部の人が見たアフリカ。自分たちの、私は「あなたたち自身の」言葉であなたたちが感じている今の現状とアフリカの歴史を言う機会を作りたいんですっていうことでお話しして、それには歌でもいいんですけど、やっぱりオペラっていうのは2時間とかっていうボリュームがあって、ストーリーになってて、それでしかも複数の人がいろんな風に歌えますよね。だから一人が一方的に言うんじゃなくて、反対意見があればそれも言ったらいいしみたいな。そういう作りができるから、これを作り上げて、よそに行ってもやろうよよみたいな。

佐藤知久 

めちゃくちゃ画期的な...


藤家溪子
あ、それがついに。最初は万博っていうのがあってね、2025年に、とか言ってたけど、自分はもう全然そんなのなんていうか雲を掴むような話で、どうやって万博に出たらいいのかわからなかったけど、とりあえずそれを言って、みんなのモチベーションを上げてたんです。でも、まあ、ひょうたんからコマで本当に行くことができるようになって。まあ、ブルキナファソの政府も喜んでるんですよ。最近はあの ル・モンド っていう、あのフランスの大手の新聞をシャットアウトしたんですね。で、前はル・モンドにアクセスできたんですけど、ブルキナからもうできなくなって。なぜならば、ル・モンドはフェイクニュースばっかり流すからというような感じで。そしたら自分の主張は何かをやっぱりきちんと言わないといけないし、やっぱり2時間物の構成をする時に、やっぱりこう自分の情報とかも整理しますよね。で、この過程はすごく大事、井戸端会議じゃないんだから。それをオペラっていう形でやらせていただきます。

佐藤知久
じゃああの、音楽はもちろん記譜しない?

藤家溪子
はい、しません。

佐藤知久 

でもテクストはなんか残す?
 

藤家溪子 

テクストは結局いろんな過程があったんですけど、やっぱり自分のことを自分の言葉で。正しく、客観的に語るっていうのは非常に難しいということを感じまして、で、結局ブルキナファソに政治難民として逃げてきたコンゴ共和国の人がいるんです。まあラッパーなんですけど、その人は、あのまあアクティビストでもあるんですね。あのアフリカを、あの東アジア共栄圏じゃないですけど、一つのアフリカみたいなことを掲げて、ものすごい運動してて、そのせいで自分の国から追い出されて国に帰ったら死刑...みたいな人なんですけど、この方が同じアフリカ人でありながら、ブルキナファソの状態を。やや客観的に見ているので、この人の書いたものを軸にして、で、そこに私たちもくっつけるみたいな、ちょっと複合的になって。
 

佐藤知久 

へえ。
 

藤家溪子 

でこの方はラッパーで、あのもう、ラッパーとしてもとにかくすごいとんがってて、Degage France! とか言って、フランス(の影響)をクリーンアップみたいなね。そんなめちゃくちゃちょっと...万博にはそういうのは出られないんですけど。
 

佐藤知久 

ハハハ...出られないんですか?

 

藤家溪子 
だめだそうです。でも彼もそういうやり方で民衆の心を一つする、で、そのデモするとかもやってきたけど、一つの限界を感じるって私に言ったんですよ。主張するというのが、必ずしも音楽の役割ではない。音楽っていうのは、さっきも言ったように。言葉に尽くせぬ感情とか、そういうのが表現できるからで、自分はラッパーだけど、その傍ら四年かな?五年ぐらいかかって、自叙伝的なストーリーを書いたんです。で、やっぱり文学の中でもそういう直接的なラップじゃなくて、詩の形式とか、ええ小説の形式でもうちょっと奥深い世界が描けるっていうか、彼にとっても挑戦なので、これを台本にもらって一緒に作業してるっていう形です。

 

佐藤知久 
めちゃめちゃ画期的なことをされてるなってちょっと思う。

 

藤家溪子 

太鼓言葉も入れたかったんですけど、このトーキングドラムが、やっぱりなかなか一筋縄では私には理解できないし、もう今太鼓言葉がわかる人っていうのがもうすごい減少しちゃってるんですね。そのこれは絶滅危惧なんですけど、まあ、でもちょっとそれも入れてはいるんです。私なりに頑張ってみました。

佐藤知久
いや、ちょっとあの僕だけ面白がってて、あの非常にスリリングなことが語られていると思うんですが、ええ、他に何か?感想昨日一人一人聞いてて、ものすごい時間がかかる。

藤家溪子
昨日はなんか食べ物の話がね。

佐藤知久
今日はちょっと音楽の話から...

藤家溪子 
やはり岡田先生、あの(作品の)演奏がありましたし、まず、先鞭を切ってお願いします。


岡田加津子
いや、もうショッキング過ぎて、常に藤家さんの話がもう、もうとにかくこう、まあ平和にっていうか平和ボケした状態でぼんやり暮らしている自分なりに、毎日一生懸命自転車をこいでるつもりではいますけど、それともなんかもう桁外れの世界で生きてらして、桁外れなことを考えていらっしゃるので、ちょっとなんかここで同じ土俵でなんか語れないというか、なんかすごすぎて、あの、ちょっとそのことは置いといてっていうふうな話しないと、それはもう藤家さんにしかできないことを本当にやってらっしゃるので、あの、もともとそのブルキナファソに帰るっておっしゃって、もう行くじゃなくて帰るになっていて、そのブルキナファソで、いや、どうやってあのあなたは、それこそどうやって生きて、生活していらっしゃるんですか?とか、もうそれ聞きたいことはたくさんありますけど、なんかもう何を聞いても、もうなんか底なしのお話があるような気が...。そしてちょっとなかなか遠いもの、深すぎて遠いものをちょっと感じています、はい。

参加者2
今日の作品についての、あのギターの作品だと

佐藤知久
岡田先生?

岡田加津子 

私に言っておられます?いや、今日だから例えばですよ。いや、こういうの比べたらもう比べても意味がないとわかっているんですけど、例えばそうやって藤家さんが、そのこう犬を食べるっていう、こうすごいまあ経験そして、いただきますっていうことを、こうまあ、初めてその言葉がわかったというふうなことを、あのギターのね、曲にこう、本当にまあ落とし込んでいくっていうか、あのしていくっていうふうなことに、例えばまあ比べちゃうとですね、例えば私の今日の「桜船」っていうのは、あの、本当はちょっとプログラムにも書いてくださいましたけど、あの滋賀県の近江八幡に水郷めぐりっていうのがありまして、あの沼とも川とも言えない、そのえっと琵琶湖の端っこ端っこに、こうなんていうか、そういう水郷があるんです、川というのかな、はい、でまあ、それがこう血管のように巡らされていて、で、そこをまあ、あの小さい船でぼんやり、こう揺られていくっていう、まあ、そういう水郷めぐりっていうやり方があるんですね、楽しみ方が。で私が行った時に、ええ、桜の散る季節であの川面に、えっともう桜の花びらがもう散りしかれていて、でまあそこを、そうです、水が見えないぐらい。まあ、そういう場所もあって、ちょっと狭い吹き溜まりみたいなところだともう薄桃色の花びらが敷き詰まれて、まあそこをこう船頭さんが漕いでくださるんですけど、小さい船がこう舳先をこうちょっとこう、どんぶらどんぶらこうしながら。ずっとそのピンクの花びらをかき分けていくんです。まあ、そういう経験を。あの私ができた、たまたま偶然その時にできたこと。で、あのまあそういう、あのえっと曲になったというふうな、なんかこうちょっと能天気な、なんかあの遠足に行ってきれいだったので書きました、みたいな感じには見えるんですけれども。ただ時期的に例えば、どこかで私の気持ちが動いていたとしたら、その一年前ぐらいに父親が亡くなって、ええ、割と急にいなくなって、でまあ、その後、こうちょっと、こうなんていうのか、少し自分が弱くなったなっていう感じたことがあって、で、こうただ本当にそれは誰しも、あの誰か、あのそれは仔犬であっても、誰であっても誰か近しい人が亡くなった時に、皆さんはきっとなんか感じることがある、その気持ちだと思うんですけど、なんかその悲しいとかより、こう自分がこう非常に弱い、弱いなという、気持ちが弱くなった時にまあその船に乗ったので、なんかそのちょっと船にこう揺られてる間っていうのが、なんかこうまあある意味、こうちょっと人生のような、なんかこう人が生きていく、どんぶらどんぶら、こう生きていく、なんかそういうふうなことにもその頃多分思えたんだと思うんです。まあ、そういうふうなことって、でも口で言うことじゃないかもしれないし、あのもう音になってしまえば、いろいろこう説明しなくてね。もう音にこういう音になりましたっていうことを出すしか、もうね作曲家ってないので、それがその後楽譜にそれこそなって誰がどう弾くかもわからないし、もうそこはもうコントロール不可能になりますよね。だからそのあたりはこうある意味、楽譜をそれこそ書いてしまうと、自分の身から離れていくもので、それを楽譜を受け取った方。例えばジョセフさんが今回音にしてくださったように、きっとジョゼフさんはそれをこうまあ飲み込んで、いただきますをしてくださったというふうに思えば、まあそれも1種の連鎖っていうかなんか、あの食べていただいたというふうなことなのかなと、なんかそんなことを考えながら、あの今日は聴かせて...でもこの機会、本当あの藤家さんが。あのジョセフさんが見つけてくださったのかもしれないけど、あのこの今回こうやってあげていただいたということでなんか。私は食べられて幸せでした。ありがとうございます。というわけです。

佐藤知久
ありがとうございました。中村さん?

中村典子
えっと今日は、あの初めて藤家先生のお声を聞かせていただいたので...あのええ、今日じゃなくて、この間おいでになられた時にももちろん歌われてるんですけれど、それってたくさんの人の中にその声で思いを伝えて下さるということを、ええ、それと、それがこううん、着地した時にどんなふうに、私もそのこの曲に関してはその、ギターっていう私にとっては父が亡くなってしまって、ずっと書いて欲しい欲しいって言われたんですけど、ずっとそういう風に言われた...アマチュアのギタリストっていうんでしょうかね。あのそういうふうにしてたんですけれど、で全然そのやらなければいけないことがいっぱいあるみたいなような感じのまま父は逝ってしまいましたので、そうあのまあ、私の周りにもその、どうしてもできなかったというオーラみたいのがあったと思います。で、そのメロディは、一番自分が好きなものだったんですけど、どうしてそれを形にしてそういうふうにできなかったんだろうって、そういうふうに思ってましたけれど、ある時、その京都芸大にいらしたピアニストと打楽器の、はい、先生の2人がいらしてるブレ―メンに私も行くことがあって、そこでお会いしないんですけれど、もう帰りますのでというために、お子さんがあの生まれてて、それでその方のためにと思ってお手紙を送って帰りました。で、それでその時に9・11が起こってしまった。そうですね。あのすごいことが実は起こりました。何が起こったかと申しますと、フランクフルトの空港に着いて乗り換えて日本に帰るんですけど、何人かの人とご一緒に行ってたんですが、私とその一緒にその場所から帰ってきた人との間、そうですね。1mぐらいだったと思うんですけど、その1mぐらいの間、もう突然空港のサーバーがバシャって落ちてしまいまして。何が起こったかと言いますと、すべての、なんていうんでしょう、ええ、チェックアウトとかそういうふうに飛行機が動くためのすべてが。全部手書きをやらないとできないというようなことになってしまって、でそのどうしたらいいのかわからないなというふうに思いながら、その方は行かれて、私はかなり遅く帰ることになったんですけれども。ある方がこっちこっちっていうふうにおっしゃって、その方があの飛行機の、ここ空港の中には、あらゆる...あのなんて言うんでしょうか?全然今、あのアフリカの話と離れてしまったんですけれど、ちょっとなんかぜひ聞いていただきたいと思うお話なので、空港の裏側にたくさんの代理店が一つずつお店のようになってて、そこはどなたも普通、空港の利用される方は使うことがない、そういう場所なんですけれど、そこですごい勢いでこうやって、あのとにかく一日か2日ぐらい遅れた感じで帰れるように一生懸命やってくださった女性の方がいらして。そしてそのあこんな風になってるんだって、私はその時にすごく分かりました。要するになんかよくわからないんだけれど、表と裏っていうふうに必ずあるんだなっていうふうに、すごくのことも思いましたし、なぜか私が行くといろんなところに、いろんなことをずっと見ますので、で、なんかこうやって何がやってくるんだろうみたいなようなことを、うん目の当たりにするみたいなことがあって。でもっとなんかその時もとにかく帰ってきて、東京に帰ってきて、ええ、留学されて帰ってきた方と、全然あの知らないんですけれども、女性の方と、まあ要するに遅れちゃいます。その方は翌朝、関西に行く飛行機で帰りますというふうにチェックインされた。私は、その最終便で「あっ、目の前で新幹線が行ってしまう」みたいなような感じでしたので、ええ、もうそれであの泊まって帰るみたいなようになりました。で、その方は朝、その時に飛行機乗っちゃっていうふうに発って、私はうん、今はものすごい衝撃を受けて9・11がそのようなことになって、ええ、帰ってきたので、そのために飛行機に乗れませんっていうふうに言って、そのままあの新幹線で帰りました。ものすごい時間がかかることになりますよね。そういうふうにして帰って、なんですけれど、実はあのギターのリサイタルが帰った数日後にあるというようになってました。絶対間に合わないはずです。その演奏会にギリギリ今みたいな感じで、あの聞くことができたっていうことがあります。ですので、本当にあのギターっていう楽器が助けてくれて、どうしてそれが起こったのか、そしてその私が全然知らない空港の女性のスタッフの方がもう必死に手を引いて凄まじい勢いで、ものすごいたくさんの会社の、一枚一枚手で書いていて、何百人、何千人の人が足止めになってるんです、で、それをそういうふうにやったっていうことを、なんかあの今全部お話しせざるを得ない、いろんな感じになりました。つまり、その何が申し上げたいかというと、すべてその何かが動いていることというのがきっとおそらく、そういうことの中に入ってて、もういろんな、私も今、あの犬を食べられるという話をされた時に、私もええ、もう普通の、普通のっていうのはおかしいんですけれど、あのお肉もいただくし、給食ですべてのものを食べるっていうふうにしながら暮らしてきたんですけれど、ある日突然全然食べられなくなりました。で、なんでそれがそういうふうになっちゃったかと言いますと、食べたものが全部体の外に出てしまうというような状態になってしまったんです。でそれが実は長崎に修学旅行で行く時でした。でその修学旅行に行くために、うん、何が起こったのか、どうして今このようになっているのかとか、そういうような、たまたま私が入っていた学校がうん、カトリックの学校でした。その学校でこれから長崎に行きますので、そのためにこれを見ましょうと二ヶ月間ずっと、ええフィルム(を見る)というような時間がありました。私はその間にどうしたらいいのかわからない。息ができないっていうような感じになってきました。というのは、要するに日本の軍隊がどういうことをいろんな場所で起こしていたのかっていうようなことをフィルムに焼いている、そういうものがいる。そしてさらには教室にはベトナム戦争の記録写真がありました。こんなに大きいので、これぐらいの大きさですね。まさにそこに人が死んでる姿以外何もなかったので、毎日それを見ざるを得ないっていうような毎日で...そして長崎に行きました。で長崎に行きましたが、他の場所は行けたんですけれど、長崎の原爆記念館の中に入れなかったんです。なぜ入れなかったと言いますと、実はもうそこまでにすべて食べたものが体を受け付けないみたいな風になってしまって。なんて言ったらいいんでしょうか?体が受け付けないだけじゃなくて、学校で勉強すること、音楽をすることっていうことの間に、毎日なんかすごい圧力みたいな重力みたいなものがものすごいかかって、どうしたらよけられるかわからないっていう感じで。二ヶ月間...でも最終的には修学旅行に行ったんですね。で。今でいう激瘦せっていうものになってしまって、あのご飯を食べられないので、食べても出てきてしまうので、そういうふうになってしまって。っていう中で毎日写経するみたいに勉強して、音楽の準備をしてっていうふにしながらやってた時に、どうして楽しくないのに音楽をするのか、理由がわからなかったんですけれど、なんか理由があってそういうふうになってるんだろうなというように思いながらやっていました。そして今は、今、あの藤家先生があのお歌いになられた時に、ある意味、私の中で私が大事にできなかった歌みたいなものを、今解放してくださったなっていうふうに感じました。なのでうまく言えないんですけれど、そういうこう表現できないようなことみたいなことが。実は全員、皆さん、どの人にもあって、そのことによっていろんなことが起こって、その中で毎日暮らしてるっていうことなんだなって思ってます。私は全然、あのうまく...なんて言うんでしょうか?今はちゃんと言葉をはっきり発言できるような感じなんですけれど。ずっとうん、全然しゃべれませんでした。ずっと聞いていました、小学校も中学校も高校も、大学もきっとそうだったと思います。じゃあどうして音楽を続けているのかというと、まだ世の中に慣れてないからです。一言で申し上げるとしてならば、そういう感じがします。ですので、あのもしも、とってもいろんなことができるのでしたら、あのよりリラックスというか、いろんな場所に行って、ええ、またちょっとうまく体が動かないかったり、声がでにくかったりする方がいらしたら、あの一緒に響くようにしていただけるといいなって思いました。ええ、なんか重たい話なってしまいましたけれど。

佐藤知久
なんか最後そう繋がってきたな、という気がしましたけど、その別にブルーキーナパスが特別だとか、すごいとかっていうことが、もう多分僕も含めて言いたいわけでもないんで、多分食べることとか動物を殺めるとか、まあ植物を切っちゃうということで、やっぱりどこかで矛盾があって、でその矛盾を見えないようにするために、いろんな店ができたりとか、工場ができてるとか、全部うまく見えないようになってるんだけど、ある瞬間にそれがオフになっちゃうような時があったら、それも全部溢れ出てきちゃうっていうことは変わってないって...

中村典子
私はその時はそうやって空港のスタッフの方がそうやって走って、そういうふうにしてくださったのは、理由が一つ、ほとんどあんまりわからないですね。あの、そういうの多分、もしかしたら最後には私だけそういう風に連れていろんな場所とかそうやって飛行機どんどん乗せるために、そうやってくださったんだと思うんですけども、京都の街を歩いているとなんか常にそういうものを感じますね。長い間多分。都だったからだと思うんですけれども...
 

佐藤知久
あのまた時間を大幅にオーバーしたんですけども、ええと昨日も予定より一時間ほど...なんかこれは聞いておきたいとか、あとこの後多分ソルカフェに行って食べたりするの?そっちでも...あんまり入らないと思うんですけど、なんかあの...

参加者3
いいですか?あの今回のタイトルは「犬を食べる?」という、あの最初、「犬を食う」とかっていうタイトルでしたよね?もう少し柔らかくした?あの藤家さん自身は、その自分が親しんだ犬を食べた時に初めて犬を食べたんですか?

藤家溪子
いえ、同じような理由で殺された犬を、その前にも食べたことあります。でも犬、まあこれは犬の肉なんだよっていうことで、その生きてる時の姿は知らなかったので。あの私は、ブルキナに行く時にやっぱり違う文化に身を置かせていただくので、出されたものは決して断らないっていう誓いを立てていきましたので。はい、前も(犬肉は)食べてましたた、だけどまあしょっちゅうじゃないです。うん、そういう機会があって。
 

参加者3 

でもやっぱり自分がよく知っている犬を食べるというのは違うんじゃないですか?

藤家溪子
そうなんです。そこがあの、なんて言うんですか、やっぱり情が移っちゃってたので。残酷さって言ったら同じじゃない?ていうことなんですし、そしたら豚も牛もみんなそうで、そうなんですけど、やっぱりたまたま情が移ってしまったので、すごく違ったんですね。それはまあ、自分勝手って言えば自分勝手な感情なんですけど。
 

参加者3 

ためらいがあったんですか?
 

藤家溪子 

ありました。食べる(ためらい)というよりは、その、殺されてほしくないっていうのがあって、まあ変な話なんですけど、まあ自分なんか、もう充分生きたなっていう感じがしてて、第2の人生とかいう、まあある意味贅沢な時間なんで、こんな(月齢)六ヶ月でまだ何も知らなくて。なんかそこがむむごいなって。なんかお釈迦様が自分の身を、あのお釈迦様の前世に虎の子供たちのために身を投げたっていう話を、急に思い出しちゃったんですけど、あの私が生きててこっちが殺されるっていいのかなっていうような、ちょっとそういう感情に襲われたんですけど。まあ、あのもう一つのストーリーはさっきプレイベントでお話したみたいにテロがひどくて、国土の4割がテロリストに占拠されてて、もう戦いがずっとありますので、ええ、テロリスト側も死んでますけど、こっちの政府軍もたくさん犠牲者が出て、それはあのなかなか、その遺体が回収できなくて放置されてるんですね、その戦場に。そしたらそれを犬と豚は食べに行くらしいんですよ。草食動物はもちろん食べないけどで、犬と豚はそのためにっていうか、もしかしたらこれらは人肉を食べてるかもしれないという理由で、今まで食べてたけど止めるっていう人も最近は多いですね。まあちょっと変な話になっちゃいましたけど、でも、うちみたいにそのちっちゃい時から半ば飼っているとか、よく見てる犬はそういうことしてないし、まあ、ワガドゥグにはまだそういう戦闘は来てませんので。まあ身元がわかってるんだから、安心して食べられるみたいな、まあそういう考え方もあるんですけど、まあ命っていうのを考えてみると、まだ仔犬のだったんで、その、人間の命だけが尊いわけでなし、もう自分みたいに十分生きたと思っている私が生きて、これを助けないっていうことにちょっと感傷的になりました。
 

参加者3 

だからそういうのって、やっぱこう命をそれこそいただくみたいな、そういう感じで食べたんですか?

藤家溪子 
そうですね。でも。いただいた命で、自分がどう生きているのかっていうそれが、まあ、いただいた命に対して恥ずかしくないようにしたいとは思うんですけど、その方法もわか。らずっていう感じですね。いやいやすみません。答えになってなくて。

参加者3 

いやいや、自分だったらどうするかだろうかなというふうに思いながら、はい、あの質問させてもらいました。ありがとうございました。

藤家溪子
昨日来たお方は、インドネシアで屠殺寸前の犬を引き取って、結局日本にも連れて帰って、17年の生涯を日本で終えさせたっていうことをおっしゃってまして。やっぱりでも引き取った時に、あのね、若鶏の肉を食べさせたっていう話があって。まあ結局だから連鎖ですよね。 若鶏のほうはそのために死んだんだからっていう。だからどこに自分の感情がこう行っちゃうかみたいなことなんですけど。

佐藤知久
じゃあそろそろ時間も過ぎたの